核は、はっきりしている。平仮名を勧める理由(一年生は自分の名の漢字を読めない)、名前が一本を譲り渡せなくする「お下がり」問題、打ち損じた一ダースの行き先、四月半ばの転校生。この四つは、文房具店主にしか書けない。問題は、書き手がその四つを信用しきれず、春の光や機械の音で場面を温め、最後に「名入れ機は名前の歴史家なのだ」と主題を自分で言い切ってしまっていることだ。デビュー作の「文房具は、人生の暦なのだと思う」と同じ病が、ここでも出ている。職業の手つきで書ける人なのだから、手つきだけで運べばいい。
「名入れ機は、名前の歴史家なのだ。ただ黙って、四十年分の名前を、軸に焼きつけてきた。」
機械を「歴史家」と呼んだ瞬間に、観察が比喩へすり替わる。「黙って」「焼きつけてきた」も、機械に心を貸す常套句で、生成文がいちばん打ちたがる型です。歴史は、機械が語るのではなく、注文票の束に物として残っている。第7段ですでに「注文票の束を見れば、その年の名前の流行がそのまま分かる」と書けているのだから、歴史家の比喩は要らない。物に語らせれば足りるものを、わざわざ人格を与えて安く締めている。
「窓の外には春の柔らかな光が差し込んで、店の奥はいつもより少しあたたかい。」
デビュー作のレビューで雨と匂いを叩いたのに、今度は春の光を持ってきた。同じ手口です。四十年機械を回してきた人にとって、三月の店の奥にあるのは柔らかな光ではなく、箔を焼く熱と、ヒーターの匂いと、十二本ぶんの「カチッ」という送りの音のはずだ。雰囲気で温度を作らず、機械の発する実際の熱で温度を作ること。語り手が本当にその場にいるなら、光より先に熱が来る。
「譲り渡せなくしてしまう、不思議なものだ。」「ただのゴミにはできないものなのかもしれない。」
四十二年同じ機械を回してきた人の口から「不思議なものだ」「かもしれない」が続くのは、人物の確信ではなく作者の保険です。とくに打ち損じの鉛筆の段は、本人が現に捨てずに引き出しにしまっている――その動作自体が断定なのに、語尾でわざわざ自信を引っ込めている。動作が言い切っているものを、文が濁してはいけない。
「ひと昔前に多かった「子」のつく名は減り、いまは読み方の難しい名が増えた。」
これは概念であって観察ではない。四十年活字を拾ってきた人なら、出てくるのは「子」ではなく、引き出しの中で減った活字・増えた活字のはずです。「子」の活字は十年で一本も拾わなくなった、逆に「翔」の字が足りなくて二つ追加で発注した――そういう、活字という物の在庫で語れる。流行を抽象名詞で要約せず、引き出しの中身の偏りで見せること。あなたは活字を一文字ずつ拾う人なのだから。
「「ひろと」を「ひろど」と打ってしまった鉛筆は、もう売り物にならない。誰のものでもない名前が、十二本、私の手元に残る。」
ここが本作の心臓部なのに、あっさり通り過ぎている。一文字の濁点で、十二本がまるごと無価値になる――この非情さこそ名入れの本質です。なのに「ひろど」が紛れもない「ひろど君」の鉛筆でもあること(どこかに本物のひろどがいるかもしれない)には触れていない。打ち損じは「誰のものでもない」のか、「いるかもしれない別人のもの」なのか。そこを詰めれば、引き出しにしまう動作の意味がまるで変わる。最後の段の打ち損じと、この第5段の打ち損じが、つながっていないのも惜しい。
「名前というのは、その一本をその子だけのものにしてしまう。便利なようでいて、譲り渡せなくしてしまう、不思議なものだ。」
お下がりを下の子が嫌がる、という事実が、すでに主題を全部運んでいる。なのにそのあとで「名前というのは……」と抽象語で言い直すから、せっかくの事実の値打ちが下がる。エッセイの主題を主題文として書いたら要約です、というのは前回も言った。今回も同じ箇所で転んでいる。事実を置いたら、解説せずに次へ行くこと。
「一ダース、十二本に同じ名前が入っていく音は、四十年聞いても飽きない。」
「四十年聞いても飽きない」は、蕎麦屋でも畳屋でも時計屋でも、そのまま言える汎用の職人台詞です。飽きないなら、その音が具体的にどう鳴るのか(一本ごとの送りの間か、十二本通し終えたときの静寂か)を書かなければ、飽きていないことは伝わらない。台詞で職人らしさを宣言せず、音そのものを一行で描くこと。
残すべきは四つ。平仮名を勧める理由、お下がりを嫌がる下の子、打ち損じた一ダースの行き先、四月半ばの転校生。削るべきは、春の光の書き割り、「歴史家」の擬人化、留保語尾、そして「子」の名の抽象的な流行論。改稿では、流行は活字の在庫の偏りで見せ、打ち損じの一ダースは「どこかにいるかもしれない別人」と結びつけて引き出しにしまう動作で閉じること。意味は動作と物が運ぶ。機械に語らせるのではない。