卒業式の日の、給食
六年分の食を、顔を知らないまま作り終える

イノウエミドリ(47歳・学校給食調理員25年)

三月になると、配膳室の窓の外には早い春の光が静かに差していて、調理場にはいつもと変わらない湯気と油の匂いが満ちていた。けれど私たちの手は、いつもより少しだけ丁寧に動く。六年生の、最後の給食が近いからだ。子どもの顔は調理場からは見えない。それでも、最後の一食だけは、いつもより重く感じられる気がした。

二月の半ば、各クラスからリクエスト献立の票が集まってくる。栄養士さんが集計し、私たちにも結果を見せてくれる。一位を争うのは、毎年決まっている。揚げパンとカレー。今年は揚げパンが四十二票、カレーが三十九票だった。たった三票の差で、卒業の食卓は揚げパンに決まった。子どもたちの好みは、二十五年、ほとんど変わらない。

揚げパンを四十二票の子に出すなら、きな粉の配合を決めなければならない。きな粉と砂糖を七対三で合わせ、塩をほんのひとつまみ。油は百七十度。低いと油を吸い、高いと焦げる。コッペパンを十秒くぐらせ、引き上げて、まだ熱いうちにきな粉をまぶす。冷めてからでは粉が乗らない。最後の揚げパンだから、と力んでも、配合は変わらない。いつもと同じ七対三を、いつもより静かに混ぜた。

六年生の量は、もう一年生の倍では足りない。十二歳の体は中学生の量にじりじりと近づいていて、ごはんも、おかずも、ひとまわり大きく盛る。私は六年分のこの変化を、食缶の重さで知っている。一年生のとき軽かった食缶が、年ごとにずしりとしてくる。最後の年には、大人と同じだけの重さを、私の手のひらが量っていた。

三月の献立表をつくるとき、栄養士さんは六年生最後の日の欄に、小さく「おたのしみ」と書く。揚げパン、ABCスープ、フルーツポンチ。文字にすればただの献立だ。でも「おたのしみ」の四文字を見ると、なんだか胸が温かくなる。私たちは卒業式には呼ばれない。式の歌が遠くから聞こえてくるだけだ。その歌が、調理場までは届かないくらいの距離で、いつも鳴っていた。

最後の給食の日、食器の返却数を確認する。一枚も欠けてはいけない。皿、椀、先割れスプーン、トレー。クラスごとに数えて、帳簿の数と合わせる。そして食缶を持ち上げる。六年二組の食缶は、空だった。揚げパンも、スープも、フルーツポンチも、底まできれいに消えていた。最後の日くらいは残るかと思っていたのに、いちばん軽い食缶が返ってきた。手のひらが、それを知った。

給食は、年におよそ百九十回ある。それが六年で、千百四十回。私は一人の子に、千百四十回の食を出した計算になる。顔は知らない。名前も、献立表の上でしか知らない。それでも千百四十回、私の手はその子の一日を作っていた。そう思うと、知らないということが、急に申し訳なくなった。

最後の食缶を洗い場に下ろし、私は少しのあいだ、空になった缶を見ていた。明日からはもう、この子たちの食缶はない。新しい一年生がやってきて、また軽い食缶が、年ごとに重くなっていくのだろう。私の二十五年は、その重さの繰り返しでできている。

卒業式の日、私は調理場で六年分の給食を数えていた。千百四十回。その千百四十回の給食が、顔も知らない私からの、卒業証書なのだ。証書に名前は書けない。でも食缶の重さの中に、たしかにその子の六年が入っていた。検収室の朝は、明日も六時半に始まる。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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