往診の、鞄
家に行く治療について

イオリツムグ(51歳・鍼灸師27年)

院に来られなくなった患者の家へ、私が行く。訪問鍼灸という。鍼ももぐさも院にあるものは全部、一つの鞄に詰めて運ぶ。週に何軒か、自転車で回る。家に行く治療というのは、寄り添う医療のかたちなのだと思う。

鞄の中身は決まっている。ディスポの鍼を太さ別に、もぐさ、消毒のアルコール綿、ライター、灰皿がわりのステンレスの小皿、使い捨ての枕。院では当たり前にある設備を、この鞄一つに収めなければならない。出かける前に必ず指で数える。鍼の本数、綿の残り、ライターの火。一つでも欠けると、その家でやり直しがきかないからだ。

家での施術は、ベッドの高さとの戦いでもある。院の施術ベッドは私の腰の高さに合わせてある。けれど家の介護ベッドは低かったり、布団は床だったりする。低い床に敷かれた布団の脇で、私は膝をつき、背を丸めて鍼を打つ。院と同じ手技を、まるで違う体勢で再現する。手先の精度は変えられないので、変えるのは自分の体のほうだ。一軒終えると腰が固まっている。

寝たきりの方の体は、硬い。動かない関節は、使われないまま縮んでいく。拘縮といって、握ったままの手は指が開かない。私はその手のひらを、自分の指でゆっくりと開いていく。爪が手のひらに食い込まないように。固まった指の一本一本に、これ以上縮まないでほしいと願いながら、関節をさする。完全には開かない。それでも、昨日より少しだけ開けばいい。

施術のあいだ、介護するご家族がそばにいる。たいてい配偶者か、娘さんだ。私はできることと、できないことを、正直に伝えるようにしている。「鍼で痛みは少し楽になります。でも、縮んだ関節を元に戻すことはできません」。希望を持たせすぎないこと。けれど絶望もさせないこと。その線引きを、毎回ことばで探っている。誠実であろうとすることだけは、忘れないようにしている。

訪問鍼灸には、医師の同意書がいる。保険を使うには、かかりつけ医に「この患者には鍼灸が必要」と書いてもらわなければならない。半年ごとに更新する。書類仕事は地味で、けれど制度がそうなっている以上、避けて通れない。同意書がなければ、患者は全額自費になる。事務の現実は、感傷とは別のところで淡々と回っている。

玄関を入った瞬間に、その家の暮らしがわかる。空気の重さ、片づき具合、台所から流れてくる匂い。誰かが介護に疲れている家には、独特の澱みがある。逆に、よく手入れされた家もある。観察は、患者の体に触れる前から始まっているのだ。玄関は、その家のいちばん正直な場所だと、私は思う。

一軒終えて、自転車に乗る。次の家までの数分が、頭を切り替える時間だ。さっきの家のことは、いったん鞄にしまう。ペダルを漕ぎながら、次の患者のカルテを思い出す。あの人は冷えが強かった、あの人は娘さんが不安がっていた。風を切るあいだに、私は次の家の人間になる。

院にいれば来た人を診る。往診は、来られない人のところへ私が出向く。鞄一つを設備に、家ごとの体勢に自分を合わせ、家族のことばに耳を傾け、書類を整える。観察は玄関から始まるのだ。家に行く治療とは、結局のところ、その人の暮らしごと診るということなのだと思う。私はこれからも、この鞄を提げて、自転車を漕いでいく。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。