核は強い。「網は獲る道具じゃない。選ぶ道具だ。目合いが魚を選ぶ。小さいのは逃がしてやる寸法だ」という親方の一言、破れの形で原因を読み分ける目、水中で網が壁のように立つ姿勢の想像。この三点で一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、潮の匂いの書き割りで身の上を立ち上げ、最終段で全部を解説して回収していることだ。とりわけ惜しいのは、ミリ単位の寸法で生きる職人を語り手にしながら、肝心の場面で寸法が一度も出てこないこと。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「網は獲る道具ではなく選ぶ道具だという、あの一言が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。今日も作業場には、青い網が静かに横たわっている。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、イザヨイマナである必然がない。「青い網が静かに横たわっている」と道具の静物画で締めるのも、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「海辺の町に生まれ育ち、潮の匂いとともに大きくなった私には、自然な選択だったように思う。」「海と生きる人々の道具を、陸の作業場でこしらえる。」
潮の匂い、海と生きる人々。漁師町を安く調達するためのカタログ写真です。この書き手が本当に二十二年その作業場にいたなら、出てくるのは「潮の匂い」ではなく、ナイロン糸を巻いた指の樹脂のべたつきか、網地を裁つはさみの重さか、ロープを編む手のひらの皮の厚みのはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「糸を結ぶ前から、漁の半分は決まっているのかもしれない。」「自然な選択だったように思う。」「親方は言いたかったのだと思う。」
寸法の職人は断定で生きている職業です。三十ミリの目合いと三十二ミリの目合いの違いを、迷わず手で出す人間です。その人物の回想が「〜かもしれない」「〜だと思う」で満ちているのは、思慮深さの表現ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「漁の半分は決まっているのかもしれない」は、本人が誰より知っているはずの事実を、わざわざぼかして語っていて不自然です。
「目合いが大きければ大きい魚だけが残り、小さい魚はすり抜けて逃げていく。」
これは概念であって観察ではない。実際に網を仕立てた人間なら、寸法の数字が一つ出るはずです(「この網は三十三ミリ、まだ卵を持たない若い鯵は通り抜ける」で済む)。親方の一言も、抽象的な「小さいのは逃がす」で受けるのではなく、注文票に書かれた具体的な目合いの数字と、それが守る魚種で受けるべきです。寸法の数字が一つもないので、寸法の職人という設定がただの飾りに見えます。
「破れを直すには、ただ穴を塞ぐのではなく、元の網目と同じ寸法で編み直さなければならない。」/「私は黙って網針を運ぶ。」
冒頭でわざわざ目合いと寸法を主役に据えたのに、修理の場面で「同じ寸法で編み直す」と言うだけで、その寸法をどう測り、どう手に覚えさせているのかが書かれていない。網針には糸を巻いてあり、編むときには「綛(あぐり)」という当て木で目の大きさを揃える――そういう手の具体が一つもなく、「網針を運ぶ」という雰囲気語で済ませている。せっかくの装置を、いちばん効く場所で使っていない。
「獲りすぎないことが、海を守ることなのだと、親方は言いたかったのだと思う。」「見えない水の中の形を思い描く仕事なのだと、だんだん分かってきた。」
親方の「小さいのは逃がしてやる寸法だ」がすでに全部言っているのに、その横で作者が「海を守ることなのだ」と解説を足している。同じ内容を抽象語で言い直すたびに、親方の一言の値打ちが下がっていく。「見えない水の中の形を思い描く仕事」も同様で、浮子と沈子のバランスの描写が立っていれば、読者が勝手にそう思う。主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「網は、海であったことを記憶している。」
美しい一文だが、これは料理人の包丁にも、大工の鉋にも、そのまま置ける汎用の名言です。せっかく直前で「スクリューは一直線、フカはぎざぎざ」と具体を出したのに、それを抽象の標語で蓋をしてしまっている。具体のあとに標語を足すと、具体のほうが標語の挿絵に格下げされます。記憶しているのは網ではなく、破れの形を読むあなたの目のはずです。
残すべきは四つ。親方の「網は選ぶ道具だ/小さいのは逃がしてやる寸法だ」、破れの形で原因を読み分ける目、浮子と沈子で網が水中に立つ姿勢、そして時化の日に積み上がる網。削るべきは、潮の匂いと「海と生きる人々」の書き割り、留保語尾、最終段の主題解説、そして具体を殺す標語。改稿では、目合いを必ず具体的なミリ数で書き、親方の言葉を抽象で受けず注文票の数字で受け、初めて寸法の意味が腑に落ちた瞬間を、解説ではなく一つの動作(ある一枚の網の目合いを、自分の判断で大きいほうへ決めた、など)で書いてください。意味は寸法が運ぶ。説明が運ぶのではない。