いただきますは、誰に言う
宛先のない言葉を、給食の時間に探した

ダーン・ヤンセン(17歳・オランダからの交換留学生)

給食の時間。配膳が終わって、みんなが席に着く。それから、全員が手を合わせて、声をそろえて「いただきます」と言った。僕は、一拍遅れた。手を合わせるかたちは真似できる。でも、僕は気づいてしまった。この言葉は、誰に向かって言っているのだろう。前を見ても、誰もいない。先生は教卓にいるけれど、先生に言っているのではなさそうだ。窓の外でもない。みんなは、まっすぐ前を見て、誰でもない方向に、ありがとうのような言葉を言っている。それが、不思議でならなかった。

オランダで、僕の家では、食事の前に言葉があるとすれば eet smakelijk だ。「おいしく召し上がれ」。これは、隣の人にかける言葉だ。お皿を置いた人が、食べる人に言う。あるいは、信仰のある家では、食卓で手を組んで、神様にお祈りをする。どちらにも、宛先がある。隣の人か、神様か。けれど日本のこれは、神様でもなく、隣の人でもない。食べ物を作った人は、この教室にいない。だから僕は、最初の三日くらい、口を動かすふりだけして、本当には言えなかったのかもしれない。

気になりだすと、宛先のない言葉が、あちこちにあった。僕はノートに集めることにした。「いただきます」。「ごちそうさま」。「もったいない」——食べ残しを見て、誰にともなくつぶやく。「おかげさまで」——誰のおかげか言わない。「お疲れさま」——別に誰も疲れていなくても言う。英語にすると、必ず who が要る。Thank you なら、誰に。オランダ語でも同じだ。主語と相手が要る。けれど日本語のこれらは、宛先の欄が空っぽのまま、ちゃんと言葉として成立している。空欄なのに、誰も困らない。それが、僕にはとても日本らしく、そして美しく見えた。

給食のことを、もう少し考えた。給食を作る人は、調理室にいる。大きな鍋と、湯気と、白い服。僕はこの学校の調理室を、外からガラス越しに一度だけ見た。食べる子どもからは、その人たちの姿は見えない。声も届かない。この学校の書き手に、イノウエミドリさんという、学校給食の調理員の人がいる。その人のエッセイを読んだ。子どもの返事は、戻ってくる食缶の重さでしか分からない、と書いてあった。軽ければ、よく食べた。重ければ、残した。向こう側には、たしかに人がいる。でも、その人には、僕らの「いただきます」は聞こえない。聞こえないのに、僕らはそれを言う。とすれば、あの言葉はやっぱり、宛先の見えないまま、宙に放たれているのだと思う。

このことを、タケウチソウタに聞いた。タケウチソウタは、言葉の嘘くささに敏感な子だ。「いただきますって、誰に言ってるの」。タケウチは少し考えて、「命に、かな。魚とか、野菜の」と言った。それから「いや、作った人にもか」と言い直した。最後に笑って、「正直、何も考えてないよ。号令みたいなもん。起立、礼、いただきます、って」と言った。号令なら、宛先は要らない。「気をつけ」に宛先がないのと同じだ。けれど、と僕は思った。号令と、お祈りの、ちょうど中間に、何かがある。タケウチもそれは感じたらしくて、「号令にしては、ちょっと丁寧すぎるんだよな」と言った。

タケウチが、いいことを言った。「宛先を書かないことで、全部に向けてることにできる言葉なのかもな」。誰か一人に言うと、ほかの人に言っていないことになる。命に、と言うと、作った人を外すことになる。作った人に、と言うと、命を外す。けれど、宛先を空欄にしておけば、命にも、作った人にも、太陽にも、雨にも、全部に同時に向けられる。空欄は、欠けているのではなくて、全部入る器なのかもしれない。日本語のこの仕組みは、本当によくできていると思う。何百年もかけて、日本人がたどり着いた知恵なのだろう。

オランダの、うちの食卓を思い出す。僕の家は、食事の前に、誰も何も言わない。お皿が並んで、お父さんが「では」と言って、食べはじめる。言葉がない。沈黙だ。でも、それで足りていた。ここには、言葉がある。宛先のない言葉が。沈黙と、空欄の宛先。言葉がないことと、宛先のない言葉があること。これはたぶん、似ているようで、ぜんぜん違う。沈黙は、何も指さない。空欄の宛先は、指す先を空けて待っている。日本人は、こうやって言葉でつながり、僕の国の人は、沈黙でつながってきたのだと思う。どちらが豊かとは、言えないけれど。

ソウタと相談して、決めた。いただきますを、ちゃんと言うことにした。ただし、口だけ動かすのはやめる。毎回ひとつ、宛先を自分で決めてから言う。今日は、雨に濡れて配膳台を運んでいた、あの人に。明日は、鶏に。あさっては、米に。空欄を、自分で一回ずつ埋める。去年からの僕のやり方と、同じだ。「迷惑の例外」も、「オレンジの傘」も、みんなの輪に乗りながら、自分の手触りだけは残しておく。輪に入る。でも、まるごと飲み込まれはしない。タケウチは「お前、ほんとそういうの好きだよな」と言って、でも「悪くない」と言った。

こうして僕は、宛先のない言葉に、宛先を見つけた。空欄は、埋めるためにあったのだ。日本のいただきますは、誰に言うのか分からない言葉ではなく、誰に言ってもいい言葉だった。その自由さに、僕はようやく気づいたのだと思う。手を合わせるたびに、僕は世界の何かと、静かにつながっている。梅雨明け前の、湿った教室で、僕はもう一拍遅れない。みんなと声をそろえて、けれど心の中では、僕だけの宛先に向かって、いただきます、と言う。

補記。これは第一稿です。書いたあとで読み返すと、最後のほうが、自分で答え合わせをしてしまっている気がします。第三者の辛口レビューを受けて、書き直すつもりです。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。ダーン・ヤンセンは架空の人物です。これは辛口レビュー前の第一稿です。