核は強い。声が「閉じているか開いているか」の発見、ゴミを家まで持ち帰るという身体的な観察、そしてタケウチの「便利すぎて、たまに嘘くさい」——困らせる迷惑と、動かないための口実の迷惑、という二段の切り分け。これは辞書には載っていない、本当に見て・話して掘り当てた一点だ。問題は、書き手がその核を信用せず、留学エッセイの定型——言葉の壁、辞書の外、その国の心、本当の意味——で前後をくるんでしまったこと。とりわけ前作のレビューで一度叩いたはずの「日本人は」という大きな主語が、また戻ってきている。十七歳が一週間ノートを取った具体が、ところどころ翻訳調の文明論にすり替わっている。
「言葉の壁を越えていく、というのは、留学のいちばん美しい部分だと思う。けれどその壁は、ときどき、思いがけないところに立っている。」
「言葉の壁」「越えていく」「思いがけないところに立っている」——これは、どの留学パンフレットの表紙にも刷れる既製の枕です。前作で「冒頭の自己紹介は丸ごと削れ」と言われたのに、今度は自己紹介を叙情に置き換えただけ。この子の強みは、辞書で「迷惑」が訳せず鉛筆が止まった、というその一点の具体です。そこから始めればいい。壁の比喩は、書き手が場面を信用していない印です。一段まるごと消して、「迷惑」で止まった宿題の机から始めて構いません。
「たぶん日本人は、声そのものではなく、その声が「閉じているか開いているか」を聞いているのだと思う。」「日本人は、こうやって、迷惑を体の中にしまって持ち歩くのだ。」
発見は鋭い。だが主語が大きすぎる。一週間で観察したのは「日本人」ではなく、あの電車の、あの車両の、あの人たちだ。前作で「『日本では』が出てきたら、ほぼ全部、具体に書き直せる」と書いた。今回も同じ手癖が出ている。「日本人は」を「あの朝の車両の、誰も」「ホストファミリーのお母さんは」くらいまで小さくすれば、観察として正確で、しかも強い。一億二千万人を主語にした瞬間、見たはずの一車両が消えます。
「電車の中で、誰かが電話で話すと、それは迷惑だ。でも、友達同士が同じくらいの声でしゃべっているのは、迷惑ではない。」
これは観察ではなく、要約された一般則です。本当にノートを取ったなら、出てくるのは「火曜の朝、四十代くらいの男の人が、ドアの横で電話に出て、二駅で切った。前の席の二人組はその間ずっと部活の話をしていた」——という、その一回の絵のはず。日付も、人も、何駅も書かれていないので、フィールドノートという設定だけが宙に浮いている。具体が一つも無い観察ノートは、作り物に見えます。一週間の収集を名乗るなら、せめて二つか三つ、現場の絵を残すこと。
「音は迷惑で、危険は迷惑でない。そういう、不思議な勘定がそこにあった。」「あれも、迷惑の問題だったのだ。」
前作のベルを引くのは良い。だが「音は迷惑で、危険は迷惑でない」と標語にまとめた瞬間、あの肩を抜けた一秒の身体感覚が消えます。前作の核は「肩がおぼえている」だった。それを今作で「勘定」「問題」という抽象語に翻訳し直すと、続編というより、前作の要約を読まされている気分になる。接続するなら、概念ではなく、あの袖が動いた感触のほうを一行だけ持ってくること。「あれも迷惑だったのだ」と気づかせるのは、語り手の解説ではなく、読者の仕事です。
「迷惑には、二段ある。相手が本当に困る迷惑と、困らせないことを口実にして、自分が動かないための迷惑。タケウチは、後者のことを言っていた。」
このエッセイで最も価値のある発見が、ここです。だからこそ、語り手が「二段ある」と整理して見せてはいけない。タケウチの「便利すぎて、たまに嘘くさい」と「ただの言い訳のときがある」で、もう全部言えている。直後に語り手が同じ内容を箇条書き的に言い直すたびに、タケウチの一言の値打ちが下がる。前作レビューと同じ指摘です——意味は会話が運ぶ。語り手の要約が運ぶのではない。「タケウチは、後者のことを言っていた」の二文は、丸ごと削れます。
「直接言う文化は、摩擦が多くて、速い。言わない文化は、摩擦が少なくて、遅い。」「わからないけれど、両方に良いところがあるのだと思う。」
「直接言う文化/言わない文化」は、また主語が「文化」まで膨らんでいる。前作で叩いたはずの轍です。比べるなら、あなたの家の食卓と、ホストファミリーの食卓を、二つ並べればいい。「うちでは弟がうるさいと母が『静かに』と言って三秒で終わる」「ここの家では誰も言わずに、夜だけ少し声を落とす」——その二つの台所を見せれば、文化という語は要らない。そして「両方に良いところがある」は、最悪の留保です。前作で「即答しないことと語尾を濁すことは違う」と書いた。フェアの演出のために、せっかくの観察を引き分けに丸めてはいけません。
「言葉が訳せないとき、そこには、その国の心がいちばん深く埋まっている。」「それが、留学というものの、本当の意味なのかもしれない。」
そして致命傷。最終段で、エッセイ全体の主題を主題文として書き、ついでに「留学の本当の意味」まで自分で授与している。「その国の心が埋まっている」は、どの異文化エッセイの末尾にも貼れる汎用シール。前作レビューの末尾とまったく同じ病気です。さらに今回は、肝心の「決定」が無い。前作はベルに親指を載せて迷う動作で着地した。今作は、ノートを取って、考えて、文明論で終わっている。ダーンが、この一週間のあとで、自分の何を変えたのか——電車でどうするか、声を出すか出さないか、その決定が一行も書かれていない。テーマの指示にあった「ソウタと相談して自分ルールを決める」が、まるごと抜け落ちています。
残すべきは三つ。声が「閉じているか開いているか」、ゴミを家まで持ち帰る手、そしてタケウチの「便利すぎて、たまに嘘くさい」。削るべきは、冒頭の「言葉の壁」、「日本人は」の大きな主語、前作の標語的要約、そして最終段の「その国の心」「留学の本当の意味」。改稿では、(一)フィールドノートを日付と人のいる二、三の場面に書き直し、(二)タケウチの二段論は語り手に解説させず会話だけで立て、(三)オランダ比較を二つの台所まで小さくし、そして何より、(四)決定を入れること。テーマの核は「ソウタと相談して、残りの留学の自分ルールを決める」——電車では日本式に黙る、ただし危ないときと困っている人には声を出す、安全と助けは迷惑の例外、という具体的な決定だ。締めは標語ではなく、その決定を実行した一つの情景で。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。安全と助けの話だけは、前作と同じく、留保せずまっすぐ書いていい。