ダーン・ヤンセン(17歳・オランダからの交換留学生)
日本語の宿題で、単語をオランダ語に訳していた。三十個ほど。二十七個目で、鉛筆が止まった。「迷惑」。辞書には、overlast と出ていた。これは騒音とか、近所の苦情とか、役所が使う硬い言葉だ。次に annoyance。これは「いらいら」で、もっと小さい。trouble は「面倒」。どれも、近くを通るのに、真ん中に当たらない。僕は、訳の欄を空けたまま、次の単語にいった。
その夜、夕飯で、ホストファミリーのお母さんが「迷惑」を三回使った。皿を一枚割った僕に「気にしないで、迷惑じゃないから」。出かける娘のミオさんに「人に迷惑かけないようにね」。それから、自分が醤油をこぼして「あらやだ、ご迷惑を」。同じ一語が、許しと、しつけと、謝罪になった。割れた皿の白い縁を見ながら、僕は思った。この言葉は、訳の欄が空いたままでいい言葉ではない。観察するしかない。
ノートを一冊、決めた。一週間、「迷惑」が出てくる場面を書きとめる。火曜の朝の電車。ドアの横で、紺のスーツの男の人が電話に出た。「もしもし、はい、いま電車」。二駅で切った。同じ車両で、僕の前の二人組の女子高生は、その間ずっと、昨日のドラマの話をしていた。声の大きさは、たぶん同じだった。けれど男の人は二駅で電話をしまい、女子は降りるまでしゃべっていた。電話は閉じていて、おしゃべりは開いている。聞いていたのは、声の大きさではなく、その違いらしい。僕はそれをノートに書いた。
水曜。隣の席の人のヘッドホンから、シャカシャカ音が漏れていた。三駅ぶん、聞こえた。誰も注意しなかった。でも、向かいのおじいさんが一度だけそちらを見て、また新聞に戻った。気づいていて、ないことにする。それも、ノートに書いた。金曜は、ゴミのこと。学校帰り、ミオさんとコンビニのおにぎりを食べた。包みが手に残った。街にゴミ箱がない。ミオさんは、ためらいもせず、それを鞄のポケットに入れた。「家で捨てる」。自分のゴミを、人の前に置いていかない。彼女は、出たものを、体の中にしまって持って帰った。
ノートを見返していて、去年の自分の袖を思い出した。無音で肩を抜けた、あの自転車。ベルの音は「迷惑」で、すれ違いざまの数センチは「迷惑」ではなかった。あのときは、それを気遣いの物差し、と呼んだ。今、同じノートの上に、電話とおしゃべりと、漏れる音と、おにぎりの包みが並んでいる。袖の感触は、まだ覚えている。並べてみて、初めて、線がつながった気がした。けれど、線が何なのかは、まだ言えなかった。
このノートを、タケウチソウタに見せた。タケウチソウタは、言葉の嘘くささに敏感な子だ。「迷惑の定義、一緒に作りたい」と僕は言った。タケウチはページをめくって、「他人の時間とか気分を、勝手に使うこと」と言い、すぐ自分で首を振った。「いや、席譲るのも、勝手に声かけるよな。あれは迷惑じゃないし」。少し黙ってから、彼は言った。「迷惑って言葉さ、便利すぎて、たまに嘘くさいんだよ。本当に相手が困るやつと、『迷惑になるからやめとけ』って自分にブレーキかけるやつ。後ろのは、ただの言い訳のときがある」。僕は、その二つを別の色でノートに書いた。彼は、自分のおしゃべりが女子高生のほうだと、たぶん気づいていた。
オランダの、うちの台所を思い出す。弟がうるさいと、母が「静かに」と言う。弟は「ごめん」と言う。三秒で終わる。ここの台所では、誰も言わない。ミオさんの弟がゲームで騒いでも、お母さんは、夜だけ少し声を落とすように、と一度言うだけだ。あとは、みんなで黙る。うちの静けさは、誰かが言って作る。ここの静けさは、誰も言わないで、全員の我慢が集まって作る。電車のあの静けさも、たぶん同じだ。あれは皆の作品なのだ。どちらが優しいかは、決めない。決めないけれど、言わないぶん、我慢はどこかに溜まる。それだけは、ミオさんの夜の小さなため息で、わかった気がする。
ソウタと、残りの留学の自分ルールを決めた。電車では、日本式に黙る。ここの静けさは皆の作品で、僕も乗客の一人だから、その作品に乗っかる。でも、危ないときと、困っている人がいるときは、迷惑を恐れずに声を出す。安全と、助けだけは、迷惑の例外にする。去年の僕が、ベルを鳴らすかどうかで親指を止めたのと、同じ線だ。あのとき守れなかった分を、声で守ろうと思った。タケウチは「それ、迷惑の言い訳のほうに逃げないやつだな」と言った。たぶん、ほめられた。
梅雨の、雨の夕方。帰りの電車で、大きなお腹の女の人が、吊り革につかまって立っていた。僕の前だった。日本語で「席を譲る」を、まだ口で言ったことがなかった。心臓が、少し鳴った。僕は立って、小さい声で「どうぞ、座ってください」と言った。声は、震えた。女の人は「ありがとう」と言って、座った。隣の人は、こちらを見なかった。迷惑では、なかったらしい。電車は、また、静かになった。