「縁がなかった」の、あと
進学塾アスターの、山田謙一郎(52歳・所長)

一人だけ、では』『二人になっても』に続く第三作。視点が、所長 山田謙一郎の側に、切り替わる。

山田謙一郎。五十二歳。進学塾アスター所長。創業から数えて二十年目、私が学生時代に始めて、そのまま、一度も、よその塾に勤めたことがない。神奈川の郊外、生徒数二百人前後の中小規模の塾。

妻と、高校二年の娘、中学一年の息子。家は塾から、自転車で十五分。スタッフは、男性十八人と、女性、二人。最近、二人になった。

電話を、切ったあと

去年の秋、女性応募者の、辞退の電話を受けた。書類選考と面接を通って、内定の段階で、辞退の連絡。「他社からも内定をいただきまして」とのことだった。

電話を切ったあと、私はPCの画面を、しばらく、じっと見ていた。

面接の終わりに、私が言った言葉が、頭の中で、ちょっと、再生されていた。「うちの会社、女性スタッフは、今、佐藤さん一人なんですよ。佐藤さん、よろしくお願いします」

言ったとき、私は、佐藤さんへの労いのつもりだった。けれど、応募者にとって、それは、別のメッセージとして、たぶん、聞こえた。

「あれ、なんか、まずいこと、言っちゃったかな」と、独り言で、つぶやいた。

佐藤さんが、私のデスクの近くで、聞こえないふりを、してくれた。私は、それを、ありがたいと思った。ありがたい、と思いながら、すぐに、「まあ、縁がなかったね」と、いつもの声に戻した。

戻したあと、私は、何も、変えなかった。

娘の、ひと言

その夜、家で、夕食。高校二年の娘が、ふっと、こう言った。

「お父さんの塾、女の先生、まだ一人?」

「うん」

「そうか」

それで、娘の話は、終わった。「そうか」のあとに、何かが続くわけでもなかった。娘は、テレビのほうを見ていた。

私は、ご飯を、口に運んだ。運びながら、娘の「そうか」が、頭の中に、ちょっと、残った。残ったけれど、夕食のあと、娘は宿題を始め、私は風呂に入り、それで、その夜は、終わった。

中堅の、田中の、笑い

春に、教材会議があった。新人の高橋さんが、文化祭の役割分担に、意見を言った。「これ、性別で分けなくても、いいですよね」

私が口を開く前に、中堅の田中が、笑って言った。「あー、女性陣の意見ね」

私は、その瞬間、止まった。

止まって、田中の発言を、何か、止めようとした。けれど、止まっているうちに、田中は次の議題に話を振っていた。私は、結局、「あ……まあ、考えとくよ」と、いつもの相づちを返した。

田中は、悪意がない。私も、悪意がない。けれど、佐藤さんと高橋さんは、そこに、いる。聞いている。

私は、止めなかった。止めるべきだった、ということを、たぶん、私は、わかっていた。わかっていて、止めなかった、ということを、夜、家に帰る車のなかで、ハンドルを握りながら、ちょっと、考えた。

考えても、明日、止められる、とは、思えなかった。

引き出しを、開けなかった

ある日の昼休み、事務スペースに、中三の女子生徒が来ていた。たしかユイちゃん、佐藤さんが担当している子。

「先生……お腹、痛くて」

佐藤さんは、その時間、授業中だった。事務スペースには、私と、もう一人の男性事務がいた。

「あ、佐藤先生、四十分後に、戻ります」

「……はい」

ユイちゃんは、ちょっと困った顔をして、トイレに、消えた。

私は、知っていた。佐藤先生のデスクの、引き出しに、ナプキンが入っていることを。前に、書類を借りるとき、引き出しが少し開いていて、見えた。

知っていたけれど、私は、開けなかった。開けて、ユイちゃんに、渡す、ということが、私にはできなかった。物理的にはできる。腕を伸ばせば、届く。けれど、できる、と感じなかった。

ユイちゃんが、トイレから出てきて、教室に戻ったかどうか、私は、見ていなかった。

来週の、議題

来週、月例の運営会議がある。議題に、「来年度の採用方針」が入っている。

私は、提案を、準備している。「来年度、女性スタッフを、もう一人、採用する」。準備している。けれど、提案するかどうかは、まだ、決めていない。

他の議題が、もっと差し迫っている。少子化で生徒数が、緩やかに減っている。ライバル塾が、駅前に新規開校した。講師の労働時間が、労働基準法のラインに近い。これらと並べると、「採用の多様性」は、優先順位の下のほうに、ぶら下がる。

私が、その順位を、変えられる。私が決めれば、議題の最初に置ける。けれど、変えるかは、まだ、わからない。

「変えるかは、まだ、わからない」と書くと、まるで、決めるための時間が必要なように見える。けれど、たぶん、時間は関係ない。私は、優先順位を、もう、決めている。決めていて、それを、自分で見たくない。

縁、ということ

「縁がなかったね」と、私は、応募者辞退のあとに言った。

縁、というのは、便利な言葉だった。誰のせいでもない、ということに、できる。応募者の選択でもなく、私の発言でもなく、ただ、縁、ということに。

けれど、ほんとうは、縁ではなかった。私が、面接の終わりに、応募者に対して、まずいことを言った。それで、応募者は、自分が二人目として入る覚悟が要る、と感じた。覚悟を要する、と感じさせた、のは、私のひと言だった。

それを、縁、と片付けた。片付けて、構造を、私は、温存した。

明日も、おはよう

明日、私は、佐藤先生と、高橋さんに、おはよう、と言う。

中堅の田中にも、おはよう、と言う。

おはよう、と言いながら、来週の議題のことを、ちょっと、考えている。

考えているうちに、たぶん、また、忙しさが、来る。忙しさが来ると、議題の順位は、また、変わる。「変える」のは、私だ。けれど、変えないでおく、ということを、自分に、ちょっと、確認する。

確認することが、私の、いちばん、楽な選択だった。

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本作は『一人だけ、では』『二人になっても』の第三作・第一稿。視点を所長 山田謙一郎(52歳)の側に切り替え、「気づきかけて、変えない」加害構造の側を内側から描く。応募者辞退の電話を切ったあとの「あれ、なんか、まずいこと、言っちゃったかな」(前作 saeko-v2 と接続)、夕食での高校生の娘の「お父さんの塾、女の先生、まだ一人?」「そうか」、教材会議で中堅の田中が「女性陣の意見ね」と笑ったときに止めなかった、ユイちゃんが来た時にナプキンの引き出しを知っていたのに開けなかった、来週の運営会議の議題で「来年度、女性スタッフを採用する」を提案するかどうかまだ決めていない、「縁、というのは、便利な言葉だった」「変えないでおく、ということを、自分に、ちょっと、確認する」「確認することが、私の、いちばん、楽な選択だった」。所長を免罪せず、加害者の自意識が構造を変える行動に伴わない現実を冷静に観察する。

このページの記事はAI(Claude)を用いて作成・編集されています。登場人物・場面はフィクションです。山田謙一郎は、山田花(『花のノート』『移動教室の雑談』)・山田由紀子(『四つ、ではなかった』)とは別家族の設定です。