※本エッセイおよび本レビューはすべて創作です。登場人物・学校・出来事はすべて架空のものであり、実在のいかなる個人・組織とも関係ありません。
本稿はカド(角田樹)編第一稿への外科的指摘。本作は「ほぼ喋らない人物」を一人称で書くという矛盾を引き受けており、書き手の沈黙と読者に届ける情報量とのバランスが命綱になる。
第一稿は「キャベツ切ります」「212個って中途半端だな」「カレー辛くね?」という3つの発話を骨格にしており、一人称の中で発話の希少性そのものを主題にできている。一方、本人の内省が論文的にきれいに整理されすぎており、3つの発話に至る「重さ」が伝わりにくい。
強み
弱点
第7章のinfo-box「沈黙していたのは、拒否じゃなかった。たぶん、待ってた」、最終章の「沈黙は拒否じゃなくて待ち時間だった」。同じ文がタイトル含めて3回出てくる。
これは本作のテーマの直球の言語化で、カドが自分でこれを言ってしまうと、読者の発見を奪う。タイトルにはあってもいいが、本文では一度に減らす。それも、本人の口ではなく、何かに紛れて出てくるかたち(夜の天井、窓の外を見ながらのつぶやき)に。
処方:第7章のinfo-boxを削るか、「待ってたのかもしれない」程度の最弱の自問にとどめる。最終highlightからも「沈黙は拒否じゃなくて待ち時間だった」を抜き、タイトルだけに残す。読者が読み終えた瞬間にタイトルに戻って気づく、という構造にする。
第6章「これが、たぶん、俺の役割なのかもしれない。最初の一言を、軽く投げる係。重く受け止めるのは別の人がやる」。
「役割」「係」とカテゴリで自分を整理する身振りは、無口な人の自己理解として整理されすぎている。普段喋らない人が、突然きれいに自己定義する、という違和感がある。
処方:「役割」「係」を削る。「俺は『中途半端だな』を言って、ヤマモトが『来年は300いくだろ』を言った。それで揃うのかもしれない。揃う、というほどでもないけど」程度の、整理途中で止まる感触に。
第7章「これが、たぶん、『言葉が生きる』ということだ」「俺の言葉が、誰かに拾われた」。
「拾われた」は本作の中心隠喩で、これ自体は良い。だが「言葉が生きる」と並ぶと、カドが文学青年化する。彼は文学を書く人ではなく、窓の外を見る人として描かれている。
処方:「言葉が生きる」を削る。「拾われた」だけ残す。「拾われた、ということなのかもしれない。サッカーボールを誰かに渡したみたいに」程度の、彼の身体スケールに合った比喩を一つだけ添える。
「窓際から2番目の席」がリードと第1章と第7章に出てくる。役割は十分果たしているが、第7章の「窓際から2番目の席の17年で、初めての経験」は象徴的すぎる響きを持ってしまっている。
処方:第7章の「窓際から2番目の席の17年」を「俺の17年で、初めての経験」に短くする。あるいは「初めての」も削って、「こういうの、俺、初めてかもしれない」程度に。
第8章「『今日のカレー、辛くね?』って言って、ヨシダがスルーしたら気まずい。だから言わない、というのが、文化祭前の俺の方針だった」。
「方針」、無口な人物の語彙ではない。会議で出てくる言葉を本人の口に乗せている。
処方:「方針だった」を「ふつうだった」「やり方だった」あるいは省略して「だから言わない、で済ませてた」に変える。
最終highlight「17年待った。たこ焼き屋の片付けの一言で、待ち時間は終わった、らしい」。
「17年待った」は大げさ。カドはずっと窓の外を見ていた人物で、17年間能動的に「待っていた」わけではない。「結果的に待つかたちになっていた」が正しい。
処方:「17年待った」を「17年、窓の外を見てた」に変える。受動態に。「たこ焼き屋の片付けの一言で、何かが、ちょっと、ずれた。たぶん、いい方向に」程度に最終句を弱める。「終わった、らしい」も「終わった」と言い切るほど待ってなかった、というのが本作のリアリティ。
削る:第7章のinfo-box(待ち時間)、第6章「役割」「係」の整理、第7章「言葉が生きる」、第8章「方針」、最終highlightの「17年待った/待ち時間は終わった、らしい」のドラマ化。
足す:第6章は「揃うのかもしれない、というほどでもないけど」程度のためらい、第7章は「サッカーボールを渡したみたいに」程度の身体スケールの比喩。
保つ:26対の目の生理、ホッとしたあとのさみしさの三段階、「キャベツ切ります」を二度言う、ヤマモトとの会話、「中途半端だな」→「来年は300いくだろ」の引き取り、カレーの「マジで辛い」、最終章の窓の外。
タイトルは『窓の外を見ていた17年——文化祭、カドの七日』に変更する。「沈黙は待ち時間」を直接タイトルに出さず、「窓の外」の喚起に絞る。
レビュアー・横山研編集部(ソノダマリ+キリシマミサキ+ハヤシアヤカの連名)