鎌の、季節
草刈りが始まる前の、野鍛冶のいちばん忙しい数週間

カゲヤマソウタ(54歳・刃物鍛冶32年)

初夏になると、鍛冶場の戸口に鎌が増える。研ぎ直しと、新しい注文だ。里山の営みと寄り添うように、野鍛冶の仕事にも季節のめぐりがあって、私はその循環の中に静かに身を置いているのかもしれない。土が動けば、刃も動く。

野鍛冶の暦は、農事暦そのものだ。田植えが落ち着くころ、畦の草が伸びはじめる。果樹園では下草が膝まで来る。竹藪では筍の取りこぼしが若竹に育って、笹がうるさくなる。草が伸びる順に、鎌の注文が順に来る。暦をめくらなくても、戸口に並ぶ鎌の形を見れば、いま季節がどこにいるのかが分かるように思う。

鎌は一つの形ではない。畦の柔らかい草を薙ぐ鎌は、刃が薄く反りが浅い。果樹の下、しゃがんで足元を払う鎌は、刃渡りが短くて手元に来る。笹や篠竹を相手にする鎌は、刃が厚く、峰に重みを持たせて叩き切る。同じ「鎌」でも、相手にする草が違えば別物だ。この土地で何を作っているかが、鎌の形を決めていると言ってもいい。用途が、形を呼ぶのだ。

このごろ多いのは、年寄りからの「軽い鎌」の注文だ。今まで使っていたのが重くて、手が続かなくなった、と言う。握力が落ちた手に合わせて、私は柄を細く削り、刃を薄く打つ。柄が細ければ握り込む力が要らない。刃が薄ければ、振り下ろす腕の負担が減る。その人の手の太さを訊いて、現物の柄を握ってもらいながら、少しずつ細める。使い手の体に合わせて打つ——それが野鍛冶という仕事なのだと思う。

「ホームセンターの鎌と、何が違うの」と訊かれることがある。値段が一桁違うのだから、当然の問いだ。私はいつも、答え方に少し迷う。売り込みのように聞こえるのは嫌なので、できるだけ淡々と言うようにしている。鋼が違う、焼きが違う、と。安い鎌は刃の鋼が薄く均一でなく、焼き入れも甘いから、すぐに切れ味が鈍る。研ぎ直して長く使う前提で打った刃とは、保ちが違うのだと思う。

草刈機の時代になって、鎌はもう要らないと言われて久しい。エンジンを背負って、ナイロンの紐や金属の刃を回せば、畑一枚があっという間だ。私のところにも、草刈機の刃の研ぎが持ち込まれるようになった。けれど、機械の入らない場所が必ず残る。畦の際、果樹の幹の根元、石垣の隙間、墓の周り。そういう細かいところは、いまも手の鎌の領分だ。機械が広いところを刈るほど、鎌は狭いところへ追いやられて、そして生き残っている。

夏の鍛冶場は、とにかく暑い。火床は千度を超えて燃えているのだから、戸を開けても風が熱を運んでくるだけだ。汗が目に入る。鋼を打つあいだは、その汗を拭う手も止められない。火の前の仕事は、季節がいちばん苛酷なときに、いちばん忙しくなる。草が伸びる季節は、火がいちばん辛い季節でもある。

それでも、注文の鎌を打ちながら、私はこの仕事の巡りを愛おしく思う。土が動き、草が伸び、人が刃を求め、私が火を焚く。使い手の体に合わせて刃を打つのが野鍛冶の本領なのだ。鋼は、振るう手を知っている。そして私は、その手のために火を熾す数少ない人間の一人なのかもしれない。鎌の季節が来るかぎり、私は戸口の鎌を打ち続けるのだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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