「二回目の模試で点が下がった兄」の背後には、統計学の基本概念がある。極端な値の次は、平均に近い値が出やすい。これを平均への回帰(regression to the mean)と呼ぶ。1886年にゴールトンが親と子の身長の関係を調べて発見した。
ゴールトンは、背の高い親の子は親より低い傾向、背の低い親の子は親より高い傾向を発見した。両親の身長は遺伝の影響を強く受けるが、それ以外の要因(環境、ランダム要素)も影響する。そして、極端に高い親の場合、遺伝とランダム要素の両方が「上振れ」していた可能性が高い。子では、遺伝は引き継がれるが、ランダム要素は新たに振り直される。結果として、子は両親より平均寄りになる。
同じ仕組みが、すべての「能力+ランダム」の構造を持つ測定に現れる。テストの点数、スポーツの成績、株価、業績、判定基準のあるあらゆる数値。極端な値の次の測定は、平均に近づく方向に動く確率が高い。
本作で、兄の偏差値は 68 → 61 → 64 → 66 と振れた。母は最初の 68 を「実力」と解釈し、61 を「成績の悪化」、66 を「持ち直し」と読んだ。しかし、もし兄の真の実力(学力の中心値)が偏差値 64〜65 ほどなら、68 はたまたま運の良い当たり方であり、その後の数字はすべて、真の値の周りでの揺れである。
塾の先生が「ご心配なく、普通の振れ幅です」と答えたのは、経験的にこの仕組みを知っているからである。極端な高得点の次は、より平均に近い点が出る。極端な低得点の次は、より平均に近い点が出る。これは「持ち直した」「悪化した」ではなく、統計的に予想される現象である。
平均への回帰は、人間の直観に最も反する統計現象の一つである。極端な値の次に平均寄りの値が出ると、人は「何かが介入した」と解釈したがる。
本作のミユが、母の解釈とは別に「最初の68がたまたまだったのではないか」と思うのは、平均への回帰を直観的に掴んでいるからである。塾の先生の沈黙の中にも、同じ理解がある。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。これまでに経済学(外部性〜シトフスキー、公共財、機会費用、アンカリング)、哲学(テセウスの船)、計算理論(NP困難)、生物学(共進化)などを扱ってきた。本作はそれらに続く一本である。シリーズ全作のリストは カテゴリM から。