コンクール前の、工房
夏、納期の波と、本番までに直せるものと直せないもの

カケイユズ(25歳・管楽器のリペア職人5年)

夏になると、工房が楽器であふれる。吹奏楽コンクールの前だ。預かりの棚が二段では足りなくなって、床に並べたケースのあいだを、すり足で歩くようになる。みんな同じことを言う。「本番までに、なんとかなりますか」。青春の音色を、私はあと二週間で間に合わせなければならない。

壁の予定表が、夏のあいだだけ別の生き物になる。県大会の日付を赤で囲って、そこから逆算した線を一本引く。その線より右に来た楽器は、もう本番には間に合わない。受付の電話を取りながら、私は頭の中で、その赤い線に楽器を並べていく。全部は受けられない。受けられないものを、受けないと決めるのも、夏の仕事だ。

だから、入り口でトリアージをする。完全に分解して組み直す修理が要るのか、それとも調整だけで本番まで持たせられるのか。基準は単純だ。いま音が出るか、出ないか。出るなら、漏れている音孔を座らせ直して、コルクを噛ませて、それで本番まで持たせる。出ないなら——タンポを総替えするような楽器は、申し訳ないが、コンクール後にしてもらう。命に関わらない傷は、夏のあいだは待ってもらうしかない。

本番前にいじりすぎない、というのが、五年でいちばん身についた原則かもしれない。楽器を大きく変えると、奏者が戸惑う。ばねを一段強くすれば指は速くなるが、その指は二週間では新しい重さに慣れない。本番直前の調整は、その楽器を別物にすることではなく、その子がいつも吹いている楽器の、いちばん良い状態まで戻してやることだ。いつもの楽器の、いちばん良い状態。それ以上のことを、私はこの時期にはしない。

顧問の先生から電話がかかってくることもある。学校の備品のチューバが鳴らない、明日合奏なんです、と。預かってみると、ジョイントの内側に古い刻印があって、昭和の終わりの年号が読めたりする。何十年も、代々の三年生が吹いてきた楽器だ。年季の入った備品は、一人の癖ではなく、何十人ぶんもの手の跡が層になっている。誰の傷とも言えない傷を、私は読む。

本番前日に、駆け込んでくる子がいる。今朝、急にこのキイが下りなくなって、と泣きそうな顔で。こういうとき、私は完璧を目指さない。応急処置だ。バネの引っかかりを直して、下りるようにして、「これで明日は吹ける。でも、ちゃんとしたのは本番が終わってから持っておいで」と言う。前日に根本から手を入れるのは、いちばんやってはいけないことだから。直しきらないことを選ぶ勇気が、この日には要る。

コンクールの翌週、工房は嘘みたいに静かになる。あれだけ床に積まれていたケースが消えて、預かりの棚に隙間が戻る。私は燃え尽きたみたいに、ぼんやりと作業台を拭く。波が引いたあとの浜辺のような、あの静けさが、私はわりと好きだ。一年で、この一週間だけの静けさ。

その静かな工房に、結果を報告しに来る子がいる。「金賞でした」とか、「ダメでした、でも自己ベストだったんです」とか。私は楽器を直しただけで、その子の演奏を聞いたわけじゃない。直した者に、結果を聞く権利があるのかと言われれば、たぶん、ない。だから私からは聞かない。聞かないけれど、向こうから報告に来てくれると、やっぱり、嬉しい。

夏の工房は、青春という言葉でできているのかもしれない。けれど私が見ているのは、青春ではなく、漏れている音孔と、つぶれたコルクと、年号の刻印だ。本番前にいじりすぎないこと、いつもの楽器のいちばん良い状態まで戻してやること、それが本番前の調整なのだ。波が引いたあとの静けさの中で、私はそう思う。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

辛口レビュー →
第二稿(改稿版)→
← シリーズ目次に戻る

このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。