カミシロイブキ(48歳・篠笛職人24年)
笛は、納めてしまえば私の手を離れる。だが私はときどき、納めた笛が吹かれる祭りの夜に、こっそり聴きに行く。自分の作った音が、いまどんなふうに鳴っているのか。それを確かめずにいられないのは、たぶん職人の性なのだろう。提灯に灯がともるころ、私は人混みにまぎれて、桟敷のいちばん隅に腰を下ろす。
夏の祭りの夜は、どこか懐かしい匂いがする。焼きとうもろこしの煙と、夕立のあとの土の匂いが入りまじって、子どものころに戻ったような気持ちにさせる。やぐらに提灯が連なり、太鼓がひとつ鳴ると、夜がふいに濃くなる。そういう夜に、私の笛は鳴る。
桟敷の隅で聴いていると、すぐにわかる。あれは去年納めた笛だ。同じ六本調子でも、吹き手が変わると別の音になる。去年まで吹いていた古老は、息を笛の奥まで送り込む人で、低い音がよく響いた。今年その笛を継いだ若い衆は、まだ口元で鳴らしている。同じ笛なのに、まるで違う。笛は吹き手を選ぶのかもしれない、とそのとき思った。
保存会も、世代交代の季節を迎えている。先日、子ども囃子の練習用にと、笛を何本か頼まれた。本番用と練習用は、作り分ける。子どもの小さな指でも届くように指孔を寄せ、息の弱い子でも鳴るように歌口をほんの少し広く取る。鳴りやすさを優先した、やさしい笛だ。本番用の張りつめた笛とは、別の思想で作る。
祭りの夜、夜店の並ぶ参道を歩くのも、私の楽しみのひとつだ。金魚すくいの水音、射的の乾いた音、子どもの笑い声。その雑踏のなかを歩いていても、私の耳は、遠くの囃子から自分の笛の音だけを拾ってしまう。これはもう職業病で、どんなに賑やかな夜店の中にいても、あの一本の音が聞こえると、足が勝手にそちらを向く。
祭りが終わって幾日かすると、修理の持ち込みがある。よく吹かれた笛は、調子が変わっている。これは壊れたのではない。育ったのだ。吹き込まれた笛は、竹の内側がわずかに馴染んで、鳴りが太くなる。私が納めたときよりも、いい音がしている笛に出会うことがある。そういうとき、私はこの仕事をしていてよかったと、しみじみ思うのだった。
そして毎年この夜、私は同じことを確かめる。納めた里の囃子は、実際に聴かないとわからない。あの村の出だしは半音ずり上がり、隣の村はテンポが少し早い。その土地の囃子のなかで、自分の笛が浮いていないか、沈んでいないか。耳で取材して帰り、次の笛に反映する。図面では、決してわからないことだ。
囃子が果てて、最後の太鼓が鳴り終わると、祭りの夜はふっと静かになる。提灯の灯が一つずつ消えていく。私はまだ桟敷の隅に座って、もう鳴らない笛のことを考えている。笛は、作っただけでは完成しない。誰かに吹かれ、祭りの夜に鳴って、はじめて完成するのだ。私は作る人であり、そして、聴きに来る人でもある。納めた笛が、私をここへ連れ戻す。今年もまた、いい夜だった。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。