カミシロイブキ(48歳・篠笛職人24年)
冬になると、私は竹を伐りに行く。笛になる竹は、冬に伐ると決まっている。夏の竹は水を上げていて、伐ってもすぐに割れてしまうからだ。落葉が終わり、藪が眠りにつくころ、竹もまた、いちばん静かに身を引き締めている。そういう竹が、いい笛になる。
竹藪に一歩入ると、町の音が消える。冷たく澄んだ空気のなかに、紙やすりをかけたような静けさが満ちていて、私はいつも、自然と対話しているような気持ちになる。風が渡るたびに、竹と竹がふれあって、かさかさと鳴る。それはまだ笛になる前の、竹の声なのかもしれない。私はその声に耳をすませながら、藪の奥へと分け入っていく。
笛になる竹は、そう簡単には見つからない。百本の竹のなかに、数本あればいいほうだ。まず節と節の間――節間が、手のひら一つ分ほど伸びていること。指孔を開ける場所に節があっては困る。次に肉の厚さ。薄すぎる竹は鳴りが軽く、厚すぎる竹は音がこもる。そして三年もの。一年や二年の若竹はまだ水っぽく、五年を越えると硬くなりすぎる。三年竹を見分けられるようになるまで、私は何年もかかった。
私は竹を握り、爪で弾いて音を聴く。師匠がそうしていたように。よく締まった三年竹は、爪で弾くと乾いた高い音が返ってくる。若い竹は、湿った鈍い音がする。藪の持ち主の老人は、私が竹を弾くのを見て、「あんたら笛屋は、伐る前から音を聴いてるんだな」と笑った。そのとおりだ。私は、まだ竹である竹の、その先の音を聴いている。
伐った竹は、すぐに油を抜く。生木の竹の表面には、薄く油が浮いている。これを炭火でゆっくり炙り、にじみ出た油を布で拭き取っていく。火にかざすと、青々としていた竹の肌が、すうっと色を変える瞬間がある。青磁のような緑が、淡い飴色へと移っていく、その変わり目が私は好きだ。竹が、植物から道具へと、わずかに歩み寄る瞬間のように思える。
油を抜いた竹を、すぐ笛にするわけではない。工房の梁に積んで、何年も寝かせる。乾くにつれて竹は痩せ、撓りが落ち着き、音が据わってくる。だから私の在庫は、ほとんど未来の笛だ。今年の冬に伐るこの竹が笛になるのは、数年も先のこと。逆に言えば、いま私が削っている笛の竹は、数年前の冬、若かった私が伐ったものだ。竹を寝かせるとは、時間を在庫することなのかもしれない。
竹藪にも、手入れの行き届いた藪と、荒れた藪がある。持ち主が下草を刈り、古い竹を間引いている藪は、一本一本に陽が当たり、節間がよく伸びる。放っておかれた藪は、竹が混み合い、ひょろひょろと背ばかり高くなって、笛になる竹が育たない。いい笛は、いい藪からしか生まれない。竹を育てているのは、私ではなく、藪の持ち主なのだと、伐るたびに思い知らされる。
その老人も、もう歳だ。「わしが死んだら、この藪はどうなるかな」と、伐り終えた私に茶を出しながら言う。私は何も答えられない。手入れをやめた藪が荒れるのに、そう時間はかからない。荒れた藪からは、笛になる竹は採れなくなる。私はただ、今年もいい竹を分けてもらえたことに、頭を下げるばかりだった。
こうして毎年、私は冬の竹藪に通う。今日伐る竹が、数年後の笛になる。そして数年前に伐った竹が、いま私の手のなかで笛になっていく。竹は、伐られてからもずっと、笛になろうとしているのだ。藪の静けさのなかで聴いたあの竹の声を、私はいつか、七つの穴を通して、もう一度鳴らしてやりたいと思う。竹を伐るとは、きっとそういうことなのだろう。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。