核は強い。「目で揚げるな。耳で揚げろ」という親方の言葉、目をつぶった瞬間に立ち上がる油の音、大きな泡から小さな泡へ・低い音から高い音への変わり目、そして箸に伝わる軽さがその変わり目と「同じ場所で重なる」一点。ここだけで一本立つ。問題は、書き手がこの強い核を信用しきれず、「職人の道に一筋」の常套句で入り、最終段で主題を自分で解説して回収し、肝心の場面では音を擬人化した安い比喩で逃げていることだ。天ぷらという、温度と時間に対して残酷なほど厳密な仕事を語るなら、職業の手つきそのものでしか嘘は隠せない。
「その変わり目を聴き分けられるようになった日が、私をいまの私にしてくれた」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、校閲者の回想にも教師の回想にもそのまま貼れる汎用シールで、天ぷら職人である必然がない。直前に「色で揚げていた二十二歳の私は、もういない」と既に言い切っているのだから、そこで止めるべきでした。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めている。
「天ぷらを揚げて三十年になる。職人の道に一筋、と言えば聞こえはいいが」
「職人の道に一筋」は、職人エッセイを安く起動するための常套句です。しかもこの書き手は、わざわざ「聞こえはいいが」と添えて常套句を否定してみせる——が、否定しながら使う身振りそのものが、いちばん生成物くさい。本物の職人の語りは、年数の宣言からではなく、海老の尾の水気のような具体から始まるはずです。最初の一文を消しても、エッセイは何も失わない。
「見えていなかったのだと思う」「手数で覚えるしかなかったのだと思う」「たぶん、これが「身につく」ということなのだろう」
天ぷら職人は、断定で生きている職業です。あと三秒か、いま上げるか。迷っている間に種は揚がりすぎる。その人物の回想が「〜のだと思う」「たぶん〜なのだろう」で何度も薄まるのは、若手の自信のなさの描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とりわけ自分の修業を回想しながら「手数で覚えるしかなかったのだと思う」と他人事のようにぼかすのは、油の前に三十年立った人の声ではありません。
「私の頭の中には、いつのまにか種ごとの適温の地図のようなものができていった。低温の沼地から高温の尾根まで」
「沼地」「尾根」は概念であって、油の前の観察ではありません。実際に温度を体で覚えた人間なら、出てくるのは比喩の地形ではなく、数字か身体です。野菜は百六十度、海老は百八十度、と数字で言うか、あるいは菜箸の先から落とした衣がどの深さで浮き上がるかで温度を読む——その実務が一行あれば、地図の比喩は要らない。比喩で逃げた分だけ、観察が消えています。
「油が、種に向かって、ごうごうと喋っていた」/「今日も油は、種に向かって喋っている」
このエッセイの一番の財産は、音そのものの即物的な描写です。「ぼこ、ぼこ」と低い泡が、「ぴちぴち」と高く軽くなる——ここは見事に書けている。それなのに、油を「喋る」と擬人化した瞬間に、せっかくの即物性が文学的な装飾に化けてしまう。しかも末尾で同じ比喩をもう一度使って締めるので、二度手間で安っぽい。油は喋りません。水が抜けて、泡が小さくなり、音が上がる。それだけを書けば足りる。
「種の頃合いを音で計るように、客の食べる速度を、目で計る」
これは作者が主題を読者に手渡す、解説の一文です。音で種を計り、目で客を計る——その対句の構造は、読者が自分で見つけてこそ効くもので、書き手が「〜ように」と橋を架けてしまうと、発見が説明に格下げされる。カウンターの間合いの場面は、客が箸を置く音や、皿の余白だけを即物的に書けばいい。主題は、並べた事実の隙間から立ち上がるべきで、接続詞で運ぶものではありません。
「私は意味が分からず、しばらく鍋を見つめていた」
この一文は、校閲者の回想にも、教師の回想にも、そのまま置けます。「しばらく見つめていた」では、その間に何が起きたのかが空白のままだ。鍋の音がまだ色に隠れて聞こえなかったのか、親方の背中を見たのか、手が次の種に伸びかけて止まったのか。間の中身を書かなければ、人物の思考は存在しないのと同じです。
残すべきは四つ。「目で揚げるな。耳で揚げろ」の親方の言葉、目をつぶった瞬間に音が立ち上がる体験、「ぼこ、ぼこ」から「ぴちぴち」への即物的な音の変化、そして音の変わり目と箸の軽さが重なる一点。削るべきは、「職人の道に一筋」の常套句、留保語尾、「沼地」「尾根」の比喩地図、油を「喋る」と擬人化する装飾、そして最終段の主題解説。改稿では、適温は数字か菜箸の所作で押さえて職業の論理を立て、音は擬人化せず即物的に鳴らし、結びは「色で揚げていた私はもういない」で止めること。意味は、種が揚がる音が運ぶ。説明が運ぶのではない。