核は強い。剥いだあとの木が死なず、十年で同じ木に二度三度登るという「持続の仕組み」。幹をひと撫でして剥ぐか剥がぬかを決める手。一山に車で一時間という、文化財を支える山の遠さ。そして葺き手が出した「節の少ない長物が要る」という注文の往復。この四点で十分に一本立つ。問題は、この書き手が前作で見せた「断定で見る目」を山ではしばしば手放し、留保語尾と既製の叙情でディテールを薄めていること。そして最終段で、自分が見つけた核を自分で要約して回収してしまっていることだ。
「下から見上げていると、木の表面が一枚ずつ脱げていくように見えた。山の恵みとは、こういう労働の別名なのだと思った。」
前半の「一枚ずつ脱げていく」は良い観察です。それを「山の恵みとは、こういう労働の別名なのだと思った」という標語が台無しにしている。「山の恵み」は、この職人が口にする言葉ではなく、観光パンフレットの語彙です。労働を見た直後に、その労働を抽象名詞へ昇華してしまうのは、生成テキストの典型的な手癖。脱げていく皮を見たなら、剥ぐ音か、ヘラに乗った体重の移り方を書けばいい。
「皮の良し悪しは、木の育ちで決まるらしい。」「屋根の素直さは、整形の前に、山の地形で半分決まっているのかもしれない。」
「らしい」「かもしれない」。あなたは現場に同行したのです。伝聞ではなく目撃したのだから、原皮師がどの木をどう撫でて、何と言って剥ぐか剥がぬかを決めたか、その一例を断定で書けば「らしい」は要らない。前作のあなたは「四日目に、頬の傷が乾く前に体が覚えた」と断定で書いた。山に来た途端に保険をかけるのは、作者の臆病であって、職人の慎重さではない。
「原皮師は、ヘラ一本で木に登る。」「一抱えの束が、思いのほか重い。」
どちらも概念どまりです。ヘラとは何センチの、どんな形の道具なのか。木の皮と幹のあいだに差し込むのか、こじ起こすのか。「思いのほか重い」の重さは、何キロか、何を背負った重さに似ているのか。前作であなたは竹釘を「長さ三センチほど」と寸法で押さえた。山の道具にも同じ精度を要求します。寸法のない道具は、読者の手に渡らない。
「屋根の上の一枚には、十年かけて育った皮と、ヘラ一本で登った人の半日と、遠くなった山の現実が乗っている。屋根の十年は、山の十年の上に乗っているのだ。」
これは作者による要約です。三つの要素を箇条書きで足し上げ、「山の十年の上に乗っている」と主題文を直叙している。本文がすでにこの三つを別々の場面で見せているのだから、ここで合算する必要はない。前作は「私の打つ釘も、いつか誰かが曲がった先のまま抜く。それだけのことだ」と、説明せずに動作で閉じた。同じことを、ここでもやってください。皮を膝に当てて削ぐ手の上で閉じればいい。
「剥ぐことと育てることが、一人の手の中で同じだった。」
これも惜しい。直前の「孫の代に剥がせる木を残す」という原皮師の生の言葉が、すでに全部言っています。その一言の値打ちを、作者が抽象語で言い直すたびに下げている。前作のレビューと同じ病です——人物の一言が言い切ったことを、地の文がもう一度説明する。原皮師の言葉で止めて、地の文は黙っていい。
「軒に使う長物が要る、節の少ないのを」。原皮師はうなずいて、谷沿いのまっすぐな木を選んだ。」
往復の核なのに、職業の論理が薄い。なぜ軒に「長物」が要るのか(皮を継ぐ回数を減らしたいからか)、なぜ「節が少ない」と良いのか(節で皮が裂けるからか)が書かれていないので、注文が思いつきに見える。葺き手が現場で困った具体(どの皮で線がうねったか)を一行入れれば、その注文が山へ返る必然が立つ。前作であなたは「この手間を惜しんだ皮は…屋根の線をうねらせる」と因果で書けた人です。
「初めて言葉の往復があった。」「私はそれを、いまになって知った。」
どちらも、漁師と仲買人の話にも、農家と種苗店の話にも、そのまま貼れる汎用シールです。「往復があった」と書くより、実際に交わした二言三言を残すほうが往復は伝わる。「いまになって知った」の中身——膝の上の皮が急に遠くから来たものに見えた、その感覚——は本文に書けているのだから、結論の貼り紙は剥がしてしまってよい。
残すべきは四つ。剥いでも死なず十年でまた登れる木、幹をひと撫でして剥ぐか決める手、車で一時間という山の遠さ、そして葺き手の注文が山の木選びに返る往復。削るべきは、「山の恵み」の標語、「らしい」「かもしれない」の留保、最終段の三要素まとめと主題直叙、そして「往復があった」「いまになって知った」の汎用結論。改稿では、ヘラと束に寸法を入れ、注文には現場の因果を一行足し、最後は膝の上で皮を削ぐ動作で閉じてください。あなたは前作で、説明せず動作で閉じられた人です。意味は動作が運ぶ。山でも同じです。