カタギリスズ(39歳・図書館の資料修理係12年)
図書館の本への書き込みは、汚損だ。それを消すのも、修理係の私の仕事のうちにある。静かな作業室の窓辺で、私は今日も誰かの残した線と向き合っている。鉛筆の線は消しゴムで消える。ボールペンは消えないから、記録だけ残して、そのままにする。消すべきものを消す——それが規則だ。
消しゴムは三種類を使い分けている。やわらかい練り消しは、古い紙や、紙の繊維が弱った本に使う。普通のプラスチック消しゴムは、しっかりした紙の濃い線に。砂消しは、本当はあまり使いたくない。表面を削るから、紙が薄くなる。どれを使うかは、紙を指でなでて、力の入り具合で決める。消すというのも、力の加減のいる仕事なのだと思う。
ボールペンの書き込みは消えないので、台帳に記録する。「○○ページ欄外、青ボールペン、書き込みあり」。様式は決まっていて、何色のインクか、どのページか、本文への影響はあるか、それだけを淡々と書く。感想は書かない。書いてはいけない。台帳は、誰がどう読んだかの記録ではなく、本がどう汚れたかの記録だからだ。
受験参考書が返ってくると、傍線の濃さで、その子の必死さがわかってしまう。同じ赤線でも、何度もなぞって紙が光るほど濃いところと、一度すっと引いただけの薄いところがある。濃いところは、たいてい同じ単元に集まっている。きっと、そこが苦手だったのだ。私は消しゴムを動かしながら、会ったこともないその子のことを、すこし考えてしまう。消した線は、もう戻らない。
料理本の余白に、鉛筆で「おいしかった」と書いてあったことがある。豚の角煮のページだった。丸みのある、やわらかい字だった。私はそれを消した。規則だから消した。けれど消したあと、しばらく消しゴムのかすを払う手が止まった。窓の外には静かに雨が降っていて、作業室には消しゴムの匂いが満ちていた。誰かの「おいしかった」を、私は消してしまったのだ。
いちばん困るのは、絵本の落書きだ。クレヨンは消えない。水でも溶けないし、消しゴムでもこすれない。先日の一冊は、最後のページに大きな太陽が描いてあった。それが、なかなか上手かった。上手いと、余計に困る。下手なら、ただの汚れとして淡々と処理できるのに、上手い絵を前にすると、これを汚損と呼んでいいのか、手が迷ってしまうのかもしれない。
小説の最後のページに、誰かの感想が書かれていたこともある。鉛筆で、小さく。読み終えた人が、思わず書いたのだろう。それを消すとき、私は内容を読まないようにしている。読んでしまうと、消せなくなるからだ。けれど目は、勝手に字を追ってしまう。消すべきものを消す手と、読んでしまう目とが、私の中でいつもすこし、ちぐはぐになる。
辞書の小口は、めくられるところから黒ずむ。よく引く人の辞書ほど、小口が黒い。手垢の黒さは、その人がどれだけその辞書を頼ったかの濃さだ。点字本のページの折れもそうだ。指で読む人の折り跡は、目で読む人のものとは違う場所につく。書き込みも、折れも、汚れも、本がそれだけ使われた証なのだと思う。
書き込みは規則違反だ。汚損だ。消すのが私の仕事だ。けれど、書き込みもまた、その本が生きてきた歴史なのだ。必死の傍線も、「おいしかった」の一言も、子どもの太陽も、ぜんぶ、本が誰かに読まれた証だった。消しゴムは、そんなことは知らない顔をして、今日も白く、線を消していく。私の手は、その消しゴムよりほんの少しだけ、ためらいながら動いている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。