カヤノフミ(49歳・中学校の理科準備室助手23年)
夏休みの準備室は、静かな大仕事の季節だ。生徒のいない理科室には、遠くから蝉の声が聞こえてきて、窓の外の運動場は陽炎で揺れている。一年分の器具を、私はこの一か月で数え直す。授業のある学期には、とても手の回らない仕事だ。
棚卸しのリストは、毎年同じ書式を使う。品名、規格、数量、所在。ビーカー百ミリリットル、五十個。スタンド、四十二台。私はかごを一つずつ床に下ろし、ガラス器具を取り出しては、口の縁を指でなぞる。欠けは目で見るより、指でなぞるほうが早い。爪がかすかに引っかかれば、それは欠けだ。引っかからなければ、棚に戻す。
欠けのあるビーカーは、廃棄の箱に分ける。けれど、迷うこともある。口がほんの少しだけ欠けたものは、生徒には出せないが、私が試薬を量り取る分には使える。捨てるべきか、自分用に取っておくべきか。結局、たいていは取っておくことにしている。物を捨てるのが、私はあまり得意ではないのかもしれない。
薬品庫の仕事は、もっと神経を使う。台帳に書かれた在庫量と、実物の瓶の中身を、一つずつ照合していく。塩化ナトリウム、台帳では五百グラム、瓶を量ると四百八十。この二十グラムのズレが、どこへ消えたのか。こぼしたのか、量り間違えたのか、書き忘れたのか。私はその週の使用記録を遡って、ズレの出どころを探す。たいていは、誰かの記入漏れに行き着く。
期限切れの薬品は、廃棄の手続きが要る。流しに捨てていいものではないから、業者に引き取ってもらう。品名と量を一覧にして、専用の容器に移し替え、引き取りの日付を待つ。劇物の欄には、開封日と残量を別の台帳に記す。この手続きの紙の多さに、最初の年は面食らったものだ。けれど、薬品というのは、そういうものなのだ。
棚卸しをすると、毎年、用途のわからない器具が一つは出てくる。今年は、奥の木箱から、細く曲がったガラス管が出てきた。両端の太さが違い、片方に小さな膨らみがある。何十年も前の備品なのだろう、台帳のどこにも品名がない。私はしばらく、その意味を考えていた。廃棄の箱に入れかけて、けれど、また木箱に戻した。
扇風機は、薬品庫の戸を開けたとき、風が庫内に入らない向きに置く。揮発した薬品の匂いを、自分のほうに引き寄せないためだ。白衣の背中に汗がにじむ。それでも窓は半分しか開けない。風で台帳の紙がめくれると、照合の行を見失うからだ。誰もいない理科室で、扇風機の首振りの音だけがしている。
棚卸しが終わると、私は二学期の予定表を広げる。最初の単元が何かを見て、その実験の器具を、夏のうちに揃えてかごに分けておく。九月の初日に慌てないために。誰もいない夏の準備室で、私は二学期の最初の歓声の下ごしらえを、一人でしている。
棚卸しというのは、一年分の通信簿のようなものだ。何が減り、何が割れ、何が残ったか。その数字の一つひとつが、過ぎた一年の理科の授業を映している。割れた数を数えてきた私にとって、夏の棚卸しは、その総決算なのだと思う。明日もまた、私はリストを片手に、かごを床に下ろす。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。