書き手の備忘
会話劇シリーズを十数本書いたところで、煮詰まった。同じ語彙、同じリズム、同じ核言葉を循環している自覚がある。「うん」「ね」「お互いさま」「いつでも」「分かる、けど」。これらは便利な道具だが、便利すぎる道具は、いつか自分を縛る。
そこでひとつ、自分に問いを立てた。経験に裏打ちされたものが無いと、切れの良いエッセイは書けないのか。これは、書き手が煮詰まったときに必ず立ち上がる問いである。今日はこの問いを、自分のために整理しておきたい。
「切れの良い」とは、読者が読んだあとに何かが残る、ということを指す。涙でも、笑いでも、苛立ちでも、納得でも、なんでもいい。何かが残らない文章は、切れていない。
切れの源泉は何か。一般には、書き手の経験から来る、と信じられている。経験のある書き手は細部を知っている。細部のリアリティが、文章を切らせる。書き手が知らないことを書くと、文章は固くなり、平坦になる。
これは、たぶん、半分本当である。
残りの半分は、別の真実である。
1. 細部のリアリティは経験からしか出ない。たとえば、コンビニの夜勤で外国人店員が「お弁当、温めますか」と言うときの、語尾のわずかな上がり。これは、深夜のコンビニに何度も通った人にしか書けない。経験のない書き手は、「お弁当、温めますか」とは書けても、その語尾までは書けない。
2. 観察の蓄積が文章の温度を作る。書き手は、その場にいたから、その場の温度を知っている。温度を知っている書き手の文章は、自然に温まる。温度を知らない書き手の文章は、知識として説明する温度になる。
3. 偽の体験は読者にバレる。経験のない書き手が、経験のあるふりをして書くと、読者は何かが違うと感じる。何かが違う、というその感覚は、「テーマ」や「構造」では補えない。
これらは正しい。経験は、文章の手触りを支える。手触りのない文章は、いくら構造を整えても、切れない。
1. 想像力で経験を超えられる場合がある。優れた書き手は、自分が体験していないことを、誰かの体験を借りて、自分の声で再構築できる。フィクションの伝統は、ここに立っている。書き手はフランス革命を経験していないが、フランス革命を書ける。
2. 取材で他者の経験を借りられる。書き手が経験していないことを、経験した人に聞く。聞いて、咀嚼して、自分の声で書く。これはノンフィクションの作法だが、エッセイにも応用できる。借りた経験は、書き手のものになる。
3. 経験がない領域こそ、別の角度から書ける。書き手にとって遠い領域には、書き手にしかない距離感がある。当事者は、近すぎて見えない。遠い書き手は、見えるものが違う。違う見え方を持って書けば、それは切れる。
4. 思考実験は経験を必要としない。「もし○○だったら」という形式の文章は、経験がなくても成立する。むしろ、経験のない方が、思考実験は飛距離が出る。
これらも正しい。経験は、十分条件ではあるが、必要条件ではない。経験のない領域でも、書ける書き方が、いくつもある。
では、なぜ煮詰まるのか。
煮詰まりの正体は、飽和ではない。同じ視点の使い回しである。書き手は同じ視点に固着し、同じ語彙で同じ場面を切り続けている。語彙は変わっても、視点が変わらない限り、文章は同じ温度に戻る。読者にも、書き手にも、それが同じ温度だと分かる瞬間が来る。それが「煮詰まった」という感覚である。
煮詰まりは、創作の正常な兆候である。同じ視点を深く掘ったあとに来る、必然的な踊り場である。煮詰まりが来たということは、その視点を使い切ったということで、つまり、次の視点に行ける、ということでもある。
煮詰まりが来ているのに、まだ同じ視点で書こうとすると、文章は弱る。視点を変えれば、抜ける。
作法1:経験の有無を、テーマごとに分けて棚卸しする。書き手の経験のあるテーマ(教員業、研究、学生指導、家庭、親世代、名古屋の生活、海外出張、学科長業務)と、経験のないテーマ(介護、看護、夜勤、外国語生活、農業、漁業、芸能)を分けて並べる。並べると、書き手が今までどちらに偏っていたかが見える。偏っているほうとは反対側に行くと、視点が変わる。
作法2:経験のあるテーマで、まだ書いていないものを掘り起こす。書き手はしばしば、経験のあるテーマを「自分には当たり前すぎて書く価値がない」と思って書かない。しかしその当たり前こそが、他者には新鮮である。研究室の朝のホワイトボード、論文査読の温度、学会のロビーで誰かを待つ三十分、これらを書いていないなら、いまから書ける。
作法3:経験のないテーマには、取材か、観察の集中か、思考実験で挑む。介護を書きたいなら、介護をしている誰かに話を聞くか、介護施設の見学に行くか、自分が介護される側になる思考実験を立てる。経験を借りるか、観察で補うか、想像で飛ぶか、いずれかの方法を選ぶ。
作法4:書き手にとって遠い視点を、敢えて選ぶ。動物の視点、物の視点、AI の視点、死者の視点、未生者の視点。これらは経験を必要としないが、書き手の固着した視点を強制的に揺さぶる。揺さぶられた書き手は、自分の通常の視点が一つの選択でしかなかったと気づく。
作法5:データを物語化する。統計、表、グラフ、人口動態、気候データ。これらには経験は要らないが、視点の切り替えが要る。データを物語にすると、書き手は数字の側からものを見る練習になる。これも、視点の更新になる。
作法6:書けないことについて書く。煮詰まったということ自体を、エッセイにする。書けない領域があるという事実、経験のなさを誤魔化さずに書く、というメタな立場を取る。本ページは、まさにそれをやっている。書けないことを書くと、書けないことの輪郭が、書ける形で立ち上がる。
切れの良さは、経験の量に比例しない。経験が同じでも、切れる文章と切れない文章がある。
切れる文章には、もう一つの条件がある。それは、視点の切り替えの精度である。一つの場面を、書き手のどの距離から、どの角度から、どの時間軸で見るか。同じ場面でも、見方を変えれば、見えるものが変わる。
書き手の経験が同じでも、視点の切り替えが上手な書き手は、同じ素材から何度でも切れる文章を作れる。視点の切り替えが下手な書き手は、たくさんの経験を持っていても、いつも同じ温度の文章しか書けない。
つまり、煮詰まったときに必要なのは、新しい経験ではなく、新しい視点である。新しい経験は、新しい視点を導入する一つの方法でしかない。新しい視点は、新しい経験がなくても、見つけることができる。
会話劇シリーズが煮詰まったとき、書き手が次に試すべきことは、たぶん、こういうことである。
これらの一つでも試せば、煮詰まりは抜ける。抜けたあとに、また会話劇に戻ってきても、戻ってきた書き手は、煮詰まる前とは違う書き手である。違う書き手は、同じ会話劇でも、違う温度で書ける。
経験がないと、切れの良いエッセイは書けないか。
答えは、書けるが、書き方が違う、である。
経験がある書き手は、細部の手触りで切る。経験のない書き手は、視点の選び方で切る。両方の切り方がある。両方を持っている書き手は、強い。
煮詰まりが来たら、まず、自分がどちらの切り方に偏っていたかを点検する。偏っていたほうの反対側を、しばらく試す。試したあとで、また両方を行き来できるようになる。
そういう意味では、煮詰まりは、書き手の道具箱を点検する機会である。点検したあとの書き手は、点検する前の書き手より、たぶん、少し切れるようになる。
少し、というのが、たぶん、本当のところである。