編集部メモ
本ページは、会話劇シリーズ六作目『分かる、けど——ミスドで、サカモトと親友』の設計を、書き手側から開示するものである。先に本編を読んでから戻ってきてもらえると、二度目の読みの入口が開く。何の準備もなく直接読み始めても構わないが、その場合、本編に戻ったときに会話の表面の下にある別の会話が聞こえるようになる、はずである。
会話劇には、地の文で説明できない部分がある。書き手が技を使ったかどうかは、会話の流れだけからでは判別がつかない。本ページは、その判別がつくように、技の対応表を引いて見せる試みである。ネタばらしを読んだあとも、本編は壊れない、という前提で書く。
本編は、表面に出ている会話の下に、もう二段の層がある。三層は同時に動いている。
| 層 | サカモト | アヤ |
|---|---|---|
| 表層(読者が最初に読むもの) | 「ソウタうざい」「ケイってなんか感じ悪い」と怒っている | 「ね」「分かる」「うん」と相槌を打っている |
| 一段下(読者が二度目に気づくもの) | 本当はソウタが好き、ケイに嫉妬している | サカモトの恋心を完全に把握している |
| 最深(地の文では一切書かれないもの) | 認めたくない/気づかれたくない | 同意しすぎない技術を実践、永遠の友人の確信 |
本編には地の文(ステージ書き)も少しはあるが、アヤの内面は一行も書かれていない。にもかかわらず、読者にはアヤの確信が伝わる、という設計を意図した。伝わるかどうかは、読者の側でしか判定できない。
アヤの応答には、ひとつ大きな縛りがかかっている:サカモトの言葉に、同意しすぎてはいけない。同意しすぎると、サカモトは自分の言葉が裏返って自分に向かってくる感覚を持つ。「あ、そうか、私は本当はこう思っているのかもしれない」と、自分の恋心を直視させてしまう。それは、サカモトがいま望んでいないことだ。
同時に、否定もしすぎてはいけない。「いや、ケイさんは別にすごい人だよ」と返せば、サカモトの怒りは行き場を失って、別の方向に飛ぶ。
アヤのとる位置は、同意の手前で止める、薄く濁す、一般化で逃がす、という三種類の操作になる。
対応表:サカモトの発話 → アヤの応答 → 技
サカモトケイさんって、別に、そんなに、すごくなくない?
アヤ……そうかも、知らんけど
技:濁す。「そうかも」と入って、すぐに「知らんけど」で引き戻す。同意した瞬間に、責任を放棄するふりで距離を取る。サカモトの怒りに乗らない。
サカモト登山なんて、誰でも、行けばできるじゃん
アヤ装備、いるけどね
技:小さく反対する。サカモトの「誰でもできる」というケイへの敵意を、事実で軽く止める。否定はしない。「装備、いるけどね」だけで、ケイの正当性を一行だけ守り、サカモトの言葉を暴走させない。
サカモト大体さ、ソウタって、にぶい
アヤにぶいよね、男子は
技:一般化して逃がす。「ソウタが」ではなく「男子は」に対象を広げることで、サカモトの怒りを個人攻撃から逸らす。サカモトはすぐに「男子全般じゃなくて、ソウタが」と言い返してくるが、その時点でアヤはすでに、怒りを一段薄めている。
サカモトふつう、気づくでしょ
アヤ気づかないんじゃない?
技:問いを返す。「気づかない」と言い切らない、「気づかないんじゃない?」と疑問形で。サカモトに考える隙を渡す。直後にサカモトは「気づかないって、何が」と聞き返してくるが、アヤはここで答えを言わない(「……まあ、男子、気づかないことが、多い」と、また一般化で逃がす)。サカモトに「何が」を自分で考える時間を残している。
本編で最も繊細なのは、サカモトのトーンが一瞬下がる三行である。
サカモト別にさ、私
アヤうん
サカモトソウタのこと、好きとか、じゃないんだよ?
アヤうん
サカモトただ、なんか、感じ悪いなって、思っただけ
アヤうん
サカモトは、ここで初めて自分の恋心の輪郭に手をかける。「好きとか、じゃないんだよ?」の語尾の疑問符は、アヤへの確認ではなく、自分への確認である(読者には、ここで「あ、サカモトは自分でも分かっていない」と分かる仕組みになっている)。
この場面で、もしアヤが「そうだよね」と返したら、すべてが崩れる。「そうだよね」は、サカモトの言葉を承認したことになり、サカモトはその承認を取り消したくなって、本当の気持ちと向き合わざるを得なくなる。
アヤの取った技:「うん」だけを三回、同じ強さで繰り返す。同意でも否定でもなく、サカモトの言葉を受信した、というだけの応答。これでサカモトの恋心は、認めなくても、否定しなくても、その場に置いておくことができる。
そしてアヤは、直後に話題を逸らす——「あ、そのドーナツ、おいしい?」と。サカモトに息継ぎをさせる。
本編にはアヤの内面を語る地の文が一行もない。にもかかわらず、アヤがサカモトの恋心を把握していることと、二人の関係が永遠に続くであろうことを、読者に伝える必要がある。これは三つの装置で実現されている。
装置1:エンゼルクリームを半分こにする所作
アヤクリーム、多くない?
サカモト多い、めっちゃ多い
アヤ私、ちょっと、もらっていい?
サカモトいいよ、半分こしよっか
アヤは、最も危ない場面の直後で、サカモトに「与える機会」を作る。「もらっていい?」と聞いて、サカモトに「いいよ」と応えさせる。サカモトの位置は、被害者(怒っている側)から、与える人(半分こする側)に切り替わる。物のやりとりが、心情の重さを軽くしている。
装置2:「ありがと」「何が」「何かは、分かんないけど」「いつでも」「いつでも」
サカモトありがと
アヤ何が
サカモト何かは、分かんないけど
アヤいつでも
サカモトいつでも
サカモトの「ありがと」は何への感謝かを言わない。アヤが「何が」と聞き返すのは、サカモトを試しているわけではない、サカモトに「言わないでいい余白」を渡している。サカモトは「何かは、分かんないけど」と返し、アヤは「いつでも」と短く応じ、サカモトはそれを「いつでも」と覚え返す。
この四往復で、二人のあいだに何があったのかが言葉にされないまま、確認されている。「永遠の友人」という大きな言葉を、地の文ではなく、ふたりの言葉のテンポと反復で表す試みである。
装置3:別れ際の「焦ろう」「焦ろう」
アヤ焦ろう
サカモト焦ろう
最後の往復は、明日のテストの話に戻っている。深刻な恋愛の話から、十代の日常(テスト勉強してない)へ、自然に戻る。これでサカモトは、アヤとの会話を、特別なカミングアウトではなく、ただの放課後の雑談として家に持ち帰ることができる。
「焦ろう」のリピートは、ミスドで一度交わされ(ドーナツのあと)、改札の前でもう一度交わされる(別れ際)。同じ言葉が二回重なることで、二人のあいだのリズムが定着している、と読者に伝える。リズムが定着しているということは、二人がこのリズムをこれからも続けていくということで、それが「永遠の友人」の感触になる。
ソウタとケイは本編に一切登場せず、話題のみで存在する。これは意図的である。
もしソウタを登場させたら、ソウタの実際の発話によって、サカモトの怒りの根拠が証拠に晒されてしまう。「本当にソウタはそんなにケイの話ばかりしているのか?」「ケイはどんな人なのか?」という事実問題に読者が引きずられる。ソウタを不在にすることで、本編の関心を「ソウタが何をしたか」から「サカモトが何をどう感じているか」へ、そして「アヤがどう聞いているか」へ、安全に移すことができる。
ケイも同様。実在のケイは、サカモトの嫉妬の対象としての像を崩しかねない。読者の中に「ケイ像」が結ばれてしまうと、「サカモトの嫉妬は的外れか妥当か」という別の判定が始まってしまう。ケイを不在にすることで、嫉妬は嫉妬として、サカモトの内側のものとして読める。
不在の登場人物のことだけが話される会話劇、というのは技の選択でもあり、節約でもある。本編は二人だけの場面で書ききるほうが、サブテキストの密度が上がる。
シリーズ五景は時事ネタが軸だった。本編では、時事ネタは細部に下げてある。
これらは時代の細部だが、本編の主題ではない。十代の生活の手触りを補強する装飾として配置されている。本作の主題は普遍的なもの(嫉妬と気づかないふり)なので、時事の重さを下げている。これがシリーズ五景との反転点になる。
本編では、二人の登場人物の呼ばれ方が違う:「サカモト」(苗字呼び)と「アヤ」(下の名前呼び)。
これは偶然ではなく、性格の表象である。日本の高校では、苗字で呼ばれる女子は、しばしば気が強い・委員的・キャラが立っているタイプであり、下の名前で呼ばれる女子は、穏やかで同性に好かれるタイプであることが多い。本編はこの社会的規則を借りて、二人の性格を、呼称ラベルだけで読者に伝えている。
ただし——本編では一切示されないが、続編『いつでも』で明らかになる事実がある。親友のアヤだけは、二人のときに彼女を「ミユ」と下の名前で呼ぶ。サカモトのフルネームは「サカモト・ミユ」で、その「ミユ」を聞ける人は、たぶん、アヤだけである。
本編で「サカモト」という苗字呼びだけを見せていたのは、外向きのラベルの非対称を一作目で確立するためであり、続編で内向きの「ミユ」が明かされることで、二人の関係の濃度がもう一段だけ深く読み直せるようになっている。一作目では見せず、二作目で開示する、という設計の遅延が、永遠の友人の輪郭を、後から塗り重ねている。
本編は、シリーズ五景と次の四点で反転している。
シリーズはここで「五景+新章」の形になった。新章がどこまで続くかは、まだ書き手も決めていない。
ネタばらしのあとに本編に戻ると、表面の会話と、下の二層が同時に聞こえ始める、はずである。聞こえ始めなければ、それは設計の失敗ではなく、読者の側で「気づかないふりをする」ほうが楽しいタイプの読み方を選んでいるだけかもしれない。サカモトとアヤのあいだで起きていることは、本来、第三者が地の文で解説する性質のものではない。
本ページは、解説するべきでないものをあえて解説した試みである。ネタばらしは、本編の魅力を減らすかもしれず、増やすかもしれず、どちらでもなく、新しい方向を開くかもしれない。書き手としては、開かれることを期待しているが、閉じることを許容している。