コゴモリチヒロ(39歳・文楽人形のかしら修理17年)
かしらは、顔だけではない。中が動く。目が伏せ、眉が寄り、口が開く。その表情は、木の中を通る糸とバネが運んでいる。私は塗りも直すが、いちばん長く向き合ってきたのは、この中身のほうだ。
かしらを支える棒を胴串という。主遣いはこれを左手で握り、串についた何本かのレバー(曲がった針金のような引き手で、私たちは引栓とも呼ぶ)を、指で押したり引いたりする。一本引けば、糸が引かれ、糸の先のまぶたが下りる。もう一本で眉が動く。指の動きが、糸を伝って、顔になる。百年前の人形遣いも、同じ仕掛けで同じ顔を動かしていた。変わらないということが、この仕事の背骨なのだと思う。
中を開けると、まず糸を見る。木綿の糸が、串の中をいく筋も通って、それぞれまぶたや眉や口につながっている。動くたびに、糸は木のへりや滑車のような小さな部品に擦れる。擦れる場所は決まっていて、そこだけ毛羽が立ち、細くなる。指で挟んでしごくと、痩せた一点が分かる。切れる前のその感触が、たまらなく愛おしい。
痩せた糸は、切れるのを待たずに替える。本番の最中に糸が切れたら、その役は目を開けたまま、あるいは閉じたまま、二度と表情を動かせない。舞台の上で人形が死ぬ、というのはそういうことだ。だから私は、まだ使える糸を替える。もったいない、と昔は思った。今は、もったいなさのほうを引き受けるのが仕事なのだと分かっている。
バネも替える。昔のかしらは、鯨のヒゲ——鯨鬚の、薄く削ったしなりを、まぶたや口を戻すバネに使っていた。あの独特の、粘りのある戻り方。今はもう鯨は使えないから、薄い金属やプラスチックの板で代える。私たちは材料の代わりを探すけれど、動きそのものは変えない。客席から見て、まぶたの戻る速さが昔と同じであること。そこだけは、何で代えても揃える。材料は変わっても、顔は変わってはいけないのだ。
遣い手には、それぞれレバーの好みがある。ある主遣いは「もう少し軽く」と言う。糸の張りを締めるネジを、ほんの半回転ゆるめる。たった半回転で、指にかかる重さが変わり、その人のまぶたの下り方が変わる。別の遣い手は重いほうを好む。同じかしらでも、誰の指にかかるかで、調整は違ってくる。私はその半回転を、その人の指の記憶として覚えている。
直し終えると、私は自分で遣ってみる。胴串を握り、レバーを順に引く。修理人というのは、たいてい下手な人形遣いでもある。三人で遣うべきものを一人で握って、ぎこちなく目を開け、眉を寄せ、口を開く。それでも、指に返ってくる糸の手応えと、戻りの速さで、直りが分かる。動くことを、客席の言葉ではなく、握った指で確かめる。これをしない日はない。
本番の日、私は舞台の袖に立つ。自分の直したかしらが、主遣いの指で目を伏せる。客席からは見えない角度から、その一瞬を見ている。私の替えた糸が、私のゆるめた半回転が、ちゃんと表情になっている。袖というのは、修理人にいちばん近い客席なのかもしれない。
糸は、切れる前に替える。それが私の仕事なのだ。動かなくなってからでは遅い。痩せた一点を指で見つけ、まだ使えるうちに替えておく。目に見えない中身を、見えないまま正しく保つこと。私は十七年、その見えない糸とともに生きてきたのだと思う。今日も串の中で、新しい糸が一本、はじめて引かれるのを待っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。