核は強い。何か月も同じ作品を「観ないで」見続けた者にしか見えない笑いの席の位置の移動、最終回にだけ誰も席を立たない沈黙、そして映画が劇場から消える瞬間が涙ではなく削除ボタンの確認ダイアログ二回であること。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、既製の叙情で場面を上塗りし、最終段で主題を直接言い切って回収してしまっていることだ。デビュー作で確立した「観ないで観る人」の冷たい正確さが、要所で甘い余韻に明け渡されている。観察者を名乗る語り手が、観客より先に感傷に座ってはいけない。
「思えば、客電のあの一秒こそが、私の仕事の全てなのだ。観ないで観てきた五年間が、あの一秒の指先に、静かに宿っているのだと思う。」
エッセイの主題を、最終段で主題文として書いてしまっている。「〜こそが、私の仕事の全てなのだ」は、職人エッセイの末尾にそのまま貼れる汎用シールで、コイブチサラである必然がない。デビュー作の「だから私は、今日も観ない」が動作の宣言で締めて余白を残したのに対し、こちらは作者が読者の代わりに意味を確定させている。「指先に静かに宿っている」も、自分の仕事を自分で美しく要約する自己賛美で、観察者の手つきではない。
「窓の外には、別れを惜しむ静かな余韻が、劇場いっぱいに満ちていたように思う。」
「余韻が劇場いっぱいに満ちる」は、生成された“それっぽさ”の典型で、この一文だけ別人が書いたように浮いている。輝度計の針と数ミリのマスキングを見る人が、なぜ「余韻が満ちる」などという計測不能な空気を持ち出すのか。前段で「笑いの起きる席の位置」という、この語り手にしか書けない観察を出したばかりなのに、その直後に汎用の叙情で台無しにしている。満ちていたのは余韻ではなく、立たない客の数と、客席のどこにも動きがないという事実のはずだ。
「だから私は、いつもその一秒を計っているのかもしれない。」「客席のほうを一本の映画みたいに見ていたのだと思う。」「明日の緊張に上書きされはじめている。」
客電を上げる一秒を握っているのは、計測と判断で生きている職業だ。早すぎ/遅すぎを決めるのが仕事の人物が、その核心の動作を「計っているのかもしれない」と留保するのは、怯えではなく断言を避ける作者の保険に見える。とくに冒頭の「計っているのかもしれない」は致命的で、この語り手は計っていると断言できる唯一の人間だ。デビュー作の最終稿は留保を削って強くなった。同じ轍をまた踏んでいる。
「公開した週、客が笑うのはいつも前のほうの列だった。けれど一か月もすると、笑いは後ろの、通路際の席から起きるようになった。」
これは核になりうる最良の観察だが、まだ概念に寄っている。「前のほうの列」「後ろの通路際」では、実際にその席を見続けた人の手触りが出ない。何列目か、どの場面で起きる笑いか(同じギャグの場面のはずだ——でないと比較にならない)を一つ確定させれば、観察は一気に本物になる。「平日の昼は静かで、週末の夜はよく笑う」も同様で、これは誰でも言える一般論。この語り手なら、平日昼の客がどこで笑わなくなるかまで見えているはずだ。
「確認のダイアログが一度出て、私はもう一度押した。それだけだった。映画が劇場から消える瞬間は、涙でも音楽でもなく、ただの事務作業なのだった。」
前半の「確認ダイアログ二回」は本作で最も強い。だが後半「涙でも音楽でもなく、ただの事務作業なのだった」で、作者が自分でオチを説明してしまっている。事務作業であることは、ダイアログ二回という動作がすでに完璧に語っている。説明を足した瞬間、動作の値打ちが下がる。さらに、KDMの期限が「今日の最終回で切れる」のに、わざわざ削除ボタンを押す必要があるのか——期限切れで再生不能なら、削除は容量管理の別作業のはずで、ここに職業の論理の曖昧さがある。なぜ消すのかを一行で押さえないと、消す動作が感傷の小道具に見える。
「最終回にだけ起きるこの沈黙が、私はいつも少しこわい。彼らは、この作品とお別れをしているのだ。」
「誰も席を立たなかった」という観察は強い。だが「彼らは、この作品とお別れをしているのだ」と語り手が代弁した瞬間、観察が解釈に潰れる。お別れかどうかは観客のもので、窓の内側の人間が断定できることではない。書くべきは、いつもの回ならロゴより前に半分が通路へ動き出すという対比の事実(これは既に書けている)と、その差だけだ。差を見せれば、お別れは読者が勝手に思う。「少しこわい」という感情の自己申告も不要——立たない客席を前にした映写技師の手が何をしたか(フェーダーに指をのせたまま動けない、など)で出る。
「少しさみしい気もするけれど、それが映画館というものなのかもしれない。」
この一文は、書店員の回想にも、喫茶店の店主の回想にも、そのまま置ける。ポスターが外され別の一枚が貼られるという具体(これは良い)を出したあとに、この汎用の感慨を足すと、せっかくの具体が一般論の例示に格下げされる。「それが映画館というものだ」と言わずに、外されたポスターの巻きぐせや、台車に積まれた次作の枚数だけを置けばいい。さみしさは物が運ぶ。
残すべきは四つ。笑いの起きる席が週を追って移動していくこと、最終回だけ誰も席を立たない(普段はロゴ前に半分動く)こと、削除の確認ダイアログを二回押すだけで映画が劇場から消えること、そして客電の一秒のフェーダー。削るべきは、「余韻が劇場いっぱいに満ちる」の既製叙情、留保語尾、「お別れをしているのだ」「事務作業なのだった」「映画館というものなのかもしれない」「仕事の全てなのだ」という自己解説。改稿では、笑いの席を一つ具体的な列・場面に確定させ、削除がなぜ必要かを一行で押さえ、結びは主題を言わず動作で閉じること。意味は動作が運ぶ。客電を上げる一秒が運ぶ。説明が運ぶのではない。