コイブチサラ(27歳・映画館の映写技師5年)
客席のいちばん後ろの、小さな窓の内側に、客電のフェーダーがある。エンドロールが流れ、最後のロゴが消え、画面が真っ黒になった、その先。客席の照明をいつ上げるか——その一秒は、観客の誰でもなく、この窓の内側にいる私の指が握っている。早すぎれば無粋だし、遅すぎれば白々しい。だから私は、いつもその一秒を計っているのかもしれない。
今日は、ある作品のロングランの最終日だった。三か月続いた上映の、いちばん最後の回。私はこの三か月、同じ作品を一日に何度も「観ないで」見てきた。輝度計の針を見て、四辺のマスキングを見て、左右の音のずれを見て。物語のほうは、たぶん一度も最後まで追っていない。それでも私は、この作品のことを、客席の誰よりも知っている気がする。
同じ作品を何か月も見ていると、見えてくるものがある。笑いの起きる席の位置が、少しずつ変わっていくのだ。公開した週、客が笑うのはいつも前のほうの列だった。けれど一か月もすると、笑いは後ろの、通路際の席から起きるようになった。たぶん、評判を聞いてから来る客と、初週に飛び込んでくる客とでは、笑う場所が違う。平日の昼は静かで、週末の夜はよく笑う。私は物語を見ていないのに、客席のほうを一本の映画みたいに見ていたのだと思う。
最終回は、満席だった。私は窓の内側から、埋まった客席を見ていた。そしてエンドロールが始まっても、誰も席を立たなかった。普段の回なら、ロゴが出るより前に半分は通路へ動き出す。けれど今日は、最後の一行の小さなクレジットが画面の下に消えるまで、ほとんどの客が座ったままだった。最終回にだけ起きるこの沈黙が、私はいつも少しこわい。彼らは、この作品とお別れをしているのだ。窓の外には、別れを惜しむ静かな余韻が、劇場いっぱいに満ちていたように思う。
エンドロールの最後の文字が消えた。私は一秒、待った。早すぎれば無粋、遅すぎれば白々しい。その一秒のあいだ、私は客電のフェーダーに指をのせて、客席の呼吸のようなものを計っていた。そして、上げた。フェーダーをゆっくり押し上げると、暗かった客席に光が戻り、座っていた人たちが、ようやく現実の体に戻ったように、コートを着て立ち上がっていく。誰も、その光を私が上げたとは知らない。
客がいなくなった後、もうひとつ仕事がある。上映データを消す作業だ。この作品のKDM——上映の鍵の有効期限は、今日の最終回で切れる。期限が切れたDCPは、もうどのスクリーンでも再生できない。私はサーバーの管理画面を開き、三か月ぶんこの劇場で光になっていたデータを選んで、削除のボタンを押した。確認のダイアログが一度出て、私はもう一度押した。それだけだった。映画が劇場から消える瞬間は、涙でも音楽でもなく、ただの事務作業なのだった。
ロビーに出ると、もうスタッフがこの作品のポスターを枠から外していた。明日からの新しい作品のポスターが、丸めた状態で台車に積まれている。一枚の絵が外され、別の一枚が貼られる。それだけで、劇場の顔は替わってしまう。三か月いた作品の名前は、明日にはもうどこにも掲げられていない。少しさみしい気もするけれど、それが映画館というものなのかもしれない。
明日は、次の作品の初回がある。私はもう、次のチェックリストを頭の中で広げている。DCPの取り込みは済んでいるか。KDMの有効期限は初日と最終日に正しく合っているか。輝度、フォーカス、音の前後。初回というのは、いつも少し緊張する。一度でも黒い画面を満席の客に見せたら、取り返しがつかないからだ。今日の別れの余韻は、もう私の中では、明日の緊張に上書きされはじめている。
客電を上げる一秒。それは、誰にも気づかれない、けれどたしかに私の手の中にある裁量だ。物語を最後まで観ない私が、それでも観客の余韻だけはこの指で扱っている。早すぎず、遅すぎず。思えば、客電のあの一秒こそが、私の仕事の全てなのだ。観ないで観てきた五年間が、あの一秒の指先に、静かに宿っているのだと思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。