核は強い。子どもに「お母さんに聞いてからね」と言いながら親のカゴを盗み見る一往復、二周目に並ぶ子への答えの使い分け、焦げ目を「きつね色の手前で止める」手つき、そして夕方の値引きシールとの時間勝負。ここだけで一本立つ。問題は、書き手がこの観察を信用せず、土曜の日差しと「家族の風景」で場面を包んでしまっていることだ。とりわけ致命的なのは、デビュー作で「爪楊枝の本数=人数」「比率」を数える人として立った語り手が、今回その数字をほとんど数えていないこと。本数の人が本数を忘れたら、別人になる。
「外には柔らかな日差しが差し込んでいて、売り場にはどこか浮き立つような賑わいが満ちていた。」
柔らかな日差し、浮き立つ賑わい。どの土曜のどの売り場にも貼れる書き割りで、この台である必然がない。この語り手が本当に二十年その台に立っているなら、最初に出てくるのは日差しではなく、プレートが温まるまでの待ち時間か、開店直後の爪楊枝のカップの本数のはずだ。雰囲気が人物より先に立っている、生成された“それっぽさ”の典型。
「土曜の試食台は、たぶん、家族の風景そのものなのだと思う。」「焼けるウインナーの匂いは、どこの家の台所にもある匂いで、だからこそ人は足を止め」
これが最大の事故。前半であれだけ具体的に「歩き方」「カゴの中身」「焦げ目の止め方」を見せたのに、最終段で全部を「家族の風景」という既製の額縁に入れて回収してしまった。読者がすでに受け取ったものを、作者が抽象語で言い直して台無しにしている。「どこの家の台所にもある匂い」も、CM のナレーションで百回聞いた文。あなたが見たのは家族一般ではなく、この一人の子の振り返り方だったはずだ。
「本当は匂いで足を止める仕事なのだと思う。」「人は足を止め、土曜の午後を少しだけ立ち止まる。」「家族の風景そのものなのだと思う。」
この語り手は、デビュー作で「九十二本で四個」と数字を断言した人だ。比率で成績が出る世界に二十年いて、「匂いで止まる人が買う」を断言として受け取った人物が、自分の仕事を「〜なのだと思う」で濁すのはおかしい。「〜と思う」は、断言を避けたい作者の保険であって、本数を数える人の語尾ではない。彼女なら「匂いで足を止める仕事だ」と言い切る。
「重なった日は、爪楊枝が飛ぶように減る。けれど比率は上がらない。」
「飛ぶように減る」は概念であって観察ではない。前作の語り手なら、ここで実数を出す——平日は何本で土曜は何本、特売の重なった日は三百本を超えた、という具合に。彼女にとって本数は比喩ではなく、報告書に書く実数だ。せっかく「比率は上がらない」という前作と地続きの鋭い観察があるのに、それを支える数字を一つも置いていないので、ただの感想に落ちている。
「すでに同じ袋が入っているか、いないか。それで渡し方を変える。」
ここは核になり得るのに、肝心の「どう変えるか」が書かれていない。カゴに既に入っている親には何をして、入っていない親には何をするのか。前作の彼女なら、行動を具体的に分けたはずだ(入っている親には子に渡して終わり、入っていない親には子が食べ終わる前に親へ二本目を差し出す、など)。宣言だけして運用を見せないのは、いちばん効く装置を空打ちしているのと同じ。
「私はその匂いの真ん中に立って、ただ「いかがですか」と言い続けている。」
美しく締めようとして、また額縁を一枚足している。「匂いの真ん中に立って」は詩的な絵で、台の前の実務とは関係がない。前作の結びが「九十二本で、四個」という具体物に戻ったことを思い出してほしい。意味は具体物が運ぶ。締めの絵が運ぶのではない。完売の残り三本で焼くのをやめる、という事実のほうが、よほど終わりにふさわしい。
「私はその子に、すぐには渡さない。」
この一文だけなら、どんな試食販売員のエッセイにも置ける。なぜすぐ渡さないのか——親の同意を取る一往復で、その間にカゴを見ているから、という理由は次の文にあるのに、ここで一拍「すぐには渡さない」と溜める書き方が、もったいぶった汎用の所作になっている。理由が先、所作は理由に従わせること。
残すべきは四つ。「お母さんに聞いてからね」の一往復でカゴを見る視線、二周目の子への答えの使い分け、「きつね色の手前で止める」焦げ目と斜めの切り込み、そして値引きシールとの時間勝負・残り三本で焼くのをやめる完売の時刻。削るべきは、柔らかな日差しの開幕、「家族の風景」「どこの家の台所にもある匂い」の直叙、留保語尾。改稿では、本数の人らしく実数を一つ二つ置き、「渡し方を変える」を具体的な二つの動作に割り、最後は額縁ではなく残り三本で閉じること。意味は動作と数字が運ぶ。解説が運ぶのではない。