核は強い。親方の「切るのは引き算じゃない。五年後の足し算だ」、施主が「すっきりしたね」と言うときの親方の沈黙、刃を研ぐのは切られる木のためだという逆転、脚立を支える側の責任。この四点があれば一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用せず、香りと余韻の書き割りで場面を埋め、最終段で全部を解説して自分に判子を押してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、道具と手順に厳密なはずの職人を語り手にしながら、肝心の場面で手つきが概念どまりなこと。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「掃除から始まったあの一年が、私をいまの私にしてくれた。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、コモリエミルである必然がない。「今日も私は箒を持っている」で道具の静物画に逃げて締めるのも、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「緑の香りに包まれながら、親方たちが切り落とした枝を集め」
「緑の香りに包まれ」は、庭仕事と聞いて誰もが思い浮かべる既製の叙情です。この書き手が本当に六年その現場にいたなら、出てくるのは「緑の香り」という総称ではなく、切ったばかりの槙の樹液の匂いか、刈り込んだ犬黄楊の青臭さか、軽トラの荷台で蒸れた枝葉の匂いのはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「それだけの毎日だったように思う。」「なぜか身につかなかったのだと思う。」「親方は五年後の庭を見ていたのだと思う。」
職人は、自分の手が覚えたことについては断定で語ります。間違えたなら、なぜ間違えたかを手は覚えている。その回想が「〜ように思う」「〜のだと思う」で薄められているのは、見習いの自信のなさではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに自分の失敗の理由を「なぜか身につかなかった」で済ませているのは致命的で、本当に体で覚えた人なら、熊手と竹箒を逆に持った具体的な理由を言えるはずです。
「庭は平らではないから、脚立の四本の脚はたいてい、どれかが浮く。」
惜しい。ここは観察に近づいているのに、「どれかが浮く」で止めてしまった。実際に支えた人間なら、どの脚が浮き、自分が体のどこをどの桟にかけて殺したかを覚えているはずです(右の後脚が浮くから左手で天板の角を押さえ、右足を一段目にかけた、で済む)。「責任を持つということなのだ」と抽象語で締める前に、その一回の動作を書けば、責任は説明しなくても伝わる。職業の論理ではなく職業の動作を書いてください。
「昼間に使った鋏や鋸を、その日のうちに研ぐ。」
鋏と鋸を同じ「研ぐ」でひとくくりにしているのが、手を動かしていない証拠です。剪定鋏は片刃を砥石で当て、鋸は目立てヤスリで一目ずつ起こす——研ぎ方も道具も別物で、夜の仕事のしんどさも別です。冒頭で竹箒と熊手の使い分けを語れた手が、ここでは刃物を雑にまとめている。いちばん職人らしさが出る場所で、手つきが平板になっています。
「施主はいまの庭を見ていて、親方は五年後の庭を見ていたのだと思う。」
これは完全に解説文です。直前の「そのとき親方は、たいてい何も言わずに庭を見ていた」と「すっきりしたね」の対比が、すでに全部を語っている。沈黙が言っていることを、作者が抽象語で言い直すたびに、その沈黙の値打ちが下がっていく。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「木を切らせてもらえるまでには、長い時間がかかる。」「見ていないようで、全部を見ている人だった。」
前者は寿司でも大工でも陶芸でもそのまま置ける、職人修業美談の出だしの判子です。後者の「見ていないようで全部見ている親方」も、あらゆる徒弟物語に出てくる既製の師匠像。コモリエミルの親方が「全部見ていた」と読者に思わせたいなら、角の一本のどこを直されたか(あるいは直されずに次へ行ったその間)を一つ書けばいい。人物像は宣言ではなく、一回の出来事で立ちます。
残すべきは四つ。「切るのは引き算じゃない。五年後の足し算だ」、施主の「すっきりしたね」に対する親方の沈黙、刃を研ぐのは切られる木のためだという逆転、そして脚立を支える側の責任。削るべきは、緑の香りの叙情装置、留保語尾、最終段の主題解説と自己赦し。改稿では、研ぎは鋏と鋸を一動作ずつ分けて書き、脚立は浮く脚を一本名指しして支える動作を一回だけ書く。五年後の足し算は、親方の沈黙と「すっきりしたね」の対比に運ばせ、地の文で言い直さないこと。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。