核は強い。被り物の視界が斜め下しかなく、見えるのは足元だけだという事実。研修初日の「足を見ろ。走ってくる足、止まる足、後ずさる足」。背中を一回叩けば右、二回叩けば移動、というアテンドとの指先の会話。この三つは、この職業の人にしか書けない。問題は、書き手がその強い核を信用しきれず、「夢の国の魔法」のような既製の叙情で場面を薄め、留保語尾で逃げ、最終段で全部を解説して自分に賞状を渡してしまっていることだ。観察を売りにする語り手が、いちばん肝心なところで観察をやめて要約に逃げている。
「最初の一日、先輩が「足を見ろ」と言ってくれたあの研修が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、コテガワユメである必然がない。研修の一言がこの人を作ったのなら、それは結果のディテール(いまも電車で足元を見る、という素材は良い)に語らせればよく、語り手が「〜してくれたのだと思う」と意味を宣言した瞬間に、観察者の特権が消えます。
「あの夢の国の魔法は、たぶん、こういう小さな割り算でできている。」
「夢の国の魔法」は、この業界を外から眺めた人間の常套句です。中で七年立ってきた人の口からこれが出てくると、急に観光パンフレットの語彙になる。直前の「残りの時間を頭の中で割り算する」「あと何人。一人にかけられるのは何秒」は具体的で良いのに、わざわざ「魔法」という安い包装紙でくるんでしまった。割り算を最後まで割り算のまま見せれば、魔法という言葉を使わずに魔法が立ちます。
「いまでは言葉より身振りのほうが速いと思うこともある。」「それはきっと、悪くないことなのだろう。」
足の動きで子どもの感情を断定できる、と豪語する語り手が、自分のことになると「思うこともある」「のだろう」で逃げる。これは謙虚さではなく、断言を避ける作者の保険に見えます。とくに末尾の「悪くないことなのだろう」は弱い。電車で人の足元を見てしまう自分を、良いとも悪いとも裁かずにただ事実として置いたほうが、よほど怖くて、よほど正直です。
「途中で止まる子は、かかとが浮いたまま、行こうか戻ろうか迷っている。」
ここは良い観察だが、まだ概念寄りです。「行こうか戻ろうか迷っている」と意味を先に書いてしまっている。被り物の視界で本当に見えるのは、つま先の向きが私のほうを向いたまま、かかとだけが半回転して親のほうを向く、といった足そのものの矛盾のはずです。意味は読者に解かせる。語り手は足の事実だけを差し出せばいい。せっかく「足は嘘をつかない」と言ったのに、語り手のほうが足の言葉を翻訳して薄めています。
「背中に保冷剤を入れて立つけれど、三十分も経てば、それはただのぬるい水袋になる。」/「ハグの力加減は、卵を持つくらい、といつも自分に言い聞かせている。」
保冷剤は良い素材なのに、「ぬるい水袋」で止めて感傷へ流れてしまう。本当の手つきは運用にある——何分で交換するのか、交換はどのタイミングで(列の切れ目か、アテンドの合図か)行うのか。「卵を持つくらい」も比喩としては既製品です。「子どもの骨は思っているより細い」という即物的な一文のほうがずっと効いているのだから、比喩を足さず、骨の細さに腕の角度や手の置く位置を添えるべきだった。職業エッセイは、比喩ではなく手順で書くと嘘が消えます。
「あれから七年、私はずっと、足元の観察者だ。顔を見ない代わりに、足を見る。声を出さない代わりに、全身で聞く。」
対句で主題をまとめにかかっています。「顔を見ない代わりに足を見る」「声を出さない代わりに全身で聞く」は、本文がすでに具体で示したことを、抽象語で言い直しているだけ。先輩の「足を見ろ」と、指先のアテンド合図が、もう全部言っています。同じ内容をきれいな対句で復唱するたびに、本文の具体の値打ちが下がる。主題を主題文として書いたら、それは要約であってエッセイではありません。
「新しい身振りをひとつ覚えるたびに、世界とのあいだに、また一本、声のいらない道が通る気がした。」
美文ですが、ダンサーにも手話通訳者にも、そのまま置けます。「声のいらない道」という抽象が、コテガワユメの被り物の固有性を消している。覚えた身振りを一つ具体的に書く(首のかしげ方を何度も鏡で直した、頬を包む手の角度を変えた)ほうが、この人だけの道になる。気がした、という締めも留保語尾の一種です。
残すべきは四つ。被り物の視界が斜め下=足元しかないという身体的事実、研修の「足を見ろ。走ってくる足、止まる足、後ずさる足」、背中を叩く回数で交わすアテンドとの会話、そして子どもの骨は思っているより細いという即物的な手触り。削るべきは、「夢の国の魔法」という外側の語彙、「思う」「だろう」「気がした」の留保語尾、最終段の対句による主題解説と自己賞状。改稿では、足の感情を翻訳せず足の事実のまま差し出すこと、保冷剤とハグを比喩ではなく手順で書くこと、結びは意味を言わず、被り物を脱いだあとも足元を見てしまう自分を、裁かずにただ置くこと。観察者のエッセイは、観察だけで立つ。解説で立たせようとした瞬間に観察者でなくなる。