視界の、足元
キャラクターアクター一年目、観察者になるまで

コテガワユメ(29歳・遊園地のキャラクターアクター7年)

声を出さない仕事をしている。被り物の中に入って、お客さんの前に立つ。声はキャラクターの世界観の一部だから、中の人間が勝手に出してはいけない。だから私は、全身で話す人になった。手を広げて驚き、肩を落として悲しみ、両手で頬を包んで「会えてうれしい」を伝える。七年やってきて、いまでは言葉より身振りのほうが速いと思うこともある。

被り物の視界は、想像より、ずっと狭い。目の位置から覗いているわけではないから、正面はほとんど見えない。見えるのは斜め下——つまり、私の前に立った人の、足元だけだ。顔は見えない。表情も見えない。研修の初日に、先輩に言われた。「顔は見えなくていい。足を見ろ。走ってくる足、止まる足、後ずさる足」。

最初は、何のことか分からなかった。けれど一日立ってみて、分かった。足は、嘘をつかない。私のところへ駆け寄ってくる子の足は、つま先から地面を蹴る。途中で止まる子は、かかとが浮いたまま、行こうか戻ろうか迷っている。怖くて近づけない子は、親の足の後ろに、半分だけ隠れている。私は顔を見なくても、その子がいま、うれしいのか、こわいのかが分かるようになった。

近づいてきた小さな運動靴が、私の正面で止まって、それから半歩だけ下がったとき、私はしゃがむ。立ったまま手を出すと、被り物の影が子どもにかぶさって、もっと怖くなるからだ。膝を地面につけて、自分の背を子どもより低くして、それからゆっくり片手を出す。握手でも、ハイタッチでもない、ただ手のひらを上に向けて、待つ。来てくれたら、そっと指を包む。子どもの骨は、思っているより細い。ハグの力加減は、卵を持つくらい、といつも自分に言い聞かせている。

言葉が使えないぶん、身振りには語彙がある。首をかしげれば「どうしたの?」。両手を顔の横で開けば「わぁ、すごい!」。胸の前で手を合わせて揺らせば「ありがとう」。この語彙を、私は七年かけて少しずつ増やしてきた。新しい身振りをひとつ覚えるたびに、世界とのあいだに、また一本、声のいらない道が通る気がした。

ひとりでは立っていられない。被り物の横には、いつもアテンドの人がいる。付き添いのスタッフだ。視界の狭い私の代わりに、周りを見て、合図をくれる。背中をぽんと一回叩いたら「右にお客さん」、二回叩いたら「そろそろ移動」。私が転びそうになったら、そっと肘を支えてくれる。観客には見えないところで、私たちは絶えず、手のひらと指先で会話している。

夏は、被り物の中が別の星の温度になる。背中に保冷剤を入れて立つけれど、三十分も経てば、それはただのぬるい水袋になる。それでも手は振り続けなければならない。子どもたちにとって、振り返してくれない夢の国の住人なんて、いてはいけないから。手を振り続ける肩は、夜になると、自分のものではないみたいに重い。お風呂で腕が上がらない日もある。

グリーティングには、終わりの時間がある。列の最後のほうに、まだ小さな運動靴が見えると、私は残りの時間を頭の中で割り算する。あと何人。一人にかけられるのは何秒。最後の子の足元が、列に並んだまま、つま先で何度も伸び上がっているのが見えたとき——私はその子のところまで、自分のペースを少しだけ速める。間に合わせる。あの夢の国の魔法は、たぶん、こういう小さな割り算でできている。

あれから七年、私はずっと、足元の観察者だ。顔を見ない代わりに、足を見る。声を出さない代わりに、全身で聞く。最初の一日、先輩が「足を見ろ」と言ってくれたあの研修が、私をいまの私にしてくれたのだと思う。被り物を脱いだ素顔の私も、いつのまにか、電車の中で人の足元ばかり見るようになった。それはきっと、悪くないことなのだろう。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。