開店の、幟
商いの旗を染める、書体の相談から色褪せの染め直しまで

コトウマヒル(48歳・旗と幟の染物職人26年)

商店街には、いまも人の温もりが息づいている。一軒の店が新しく暖簾を出すと、通り全体が少しだけ華やぐ。開店の幟を頼まれると、私はその華やぎの一端を預かる気持ちになる。店の人の門出の布を染めるのだから、自然と背筋が伸びるのだ。

開店の幟の注文は、たいてい書体の相談から始まる。「祝開店」の三文字と店名。それだけのことに、店の人は意外なほど迷う。太い字がいいのか、柔らかい字がいいのか。私は帳面の余白に二通り書いて見せる。すると店の人は、自分の店の名を指でなぞって、ここはもっと丸く、と言う。その一言で、もうその幟は他のどの店の幟とも違うものになるのだと思う。

馴染みの注文もある。商店街のラーメン屋の「営業中」、八百屋の特売の幟。何年も同じ店から、傷んでは染め直し、傷んでは染め直しで来ている。営業中の三文字を、私はもう何十枚染めたかわからない。けれど店ごとに字の太さも色も違う。町の商いの風景は、こういう一枚一枚の布でできているのかもしれない。

近頃は、プリントの幟が増えた。ポリエステルに機械で刷った量産の幟だ。値段は一桁違う。手染めの幟が一万を超えるところを、プリントは千円台で何十枚も刷れる。住み分けはできている。チェーンの店や催事の使い捨ては機械の幟、長く立てる一枚は手染め。それでも、手で染めたものを選んでくれる客がいるかぎり、私の仕事は静かに続いていくのだろう。

手染めを選ぶ客は、たいてい理由を言わない。ただ「やっぱり手で染めたのがいい」と言う。プリントの色は均一で、端から端まで同じ濃さだ。手染めは挿しムラが出る。緋なら緋が、布の場所ごとに少しずつ濃さを変える。その不揃いを、客は「味」と呼ぶ。私は味のつもりで染めてはいないのだが、そう言ってもらえる一枚を染められたのだと思う。

開店の幟を染めた店から、何年か経って「閉店御礼」の幟を頼まれることがある。開店のとき書体を一緒に迷った、あの店だ。私は感傷を仕事の手に持ち込まない。閉店御礼も、祝開店と同じ手で、同じ糊で、同じ緋で染める。ただ、店名の字だけは、開店のときの帳面を引っぱり出して、同じ太さに合わせる。最後の一枚くらい、開いた日と揃えてやりたいと思うのだ。

屋外の幟には宿命がある。紫外線だ。店先に半年も立てれば、日の当たる側から色が抜ける。緋がいちばん早い。薄桃になり、やがて生成りに近づく。染め直しの注文が来ると、私は褪せた一枚を広げて、もとの濃さを思い出す。同じ緋を、同じ三度挿しで重ねる。布は屋外に立つかぎり、何度でも褪せて、何度でも染め直される運命なのだろう。

夏になると、商店街の祭りの幟の一斉注文が来る。同じ意匠を何十本も、町じゅうの軒先に。納めたあと、私はその通りを歩く。自分の染めた幟が、八百屋の前にも、ラーメン屋の前にも、閉店した店の跡地の前にも立っている。風が来ると、いっせいにはためく。商いの旗が、町の風景そのものなのだ。私はその風景の中を、染めた本人として静かに歩いていく。

——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。

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