核は強い。亡母の葉書の「気おつけて」、万年筆の線一本と「ママ」の二文字、赤鉛筆を削りながらの「お袋さんの字なんだろう」。この三点だけで一本立つ。問題は、書き手がその三点を信用せず、雨と匂いの書き割りで場面を立ち上げ、最終段で全部を解説して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、道具に厳密なはずの校閲者を語り手にしながら、肝心の場面で道具の運用が曖昧なこと。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「あの雨の日に受け取った二文字が、私をいまの私にしてくれた。机の上の赤鉛筆と鉛筆は、今日も静かに並んでいる。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、コウノアサコである必然がない。道具の静物画で締めるのも、余韻の偽装です。読者に渡すべき余白を、作者が先に埋めてしまっている。
「窓の外には冷たい雨が降っていて、校閲部の部屋には紙とインクの匂いが静かに満ちていた。」
雨、匂い、静けさ。三点セットで「文学的な職場」を安く調達しています。この書き手が本当に三十二年その部屋にいたなら、出てくるのは雨ではなく、ゲラの紙質か、辞書の背の日焼けか、隣の班の電話の音のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。
「味のある原稿だったと思う。」「びっくりした、の誤りだろう。」「間違いはその人の一部なのかもしれない、と思った。」
校閲者は断定で生きている職業です。誤りか誤りでないかを決めるために辞書を引き、用例を調べ、それでも決まらないときだけ鉛筆で訊く。その人物の回想が「〜だろう」「〜かもしれない」で満ちているのは、怯えた若手の心理描写ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「びっくりした、の誤りだろう」は致命的で、この語り手なら誤りだと**確認した**はずです。
「文章のあちこちに旧仮名が顔を出す、味のある原稿だったと思う。」
「あちこちに旧仮名が顔を出す」は概念であって観察ではない。実際にゲラを読んだ人間なら、具体例が一つ出るはずです(「さういふ」と書く人だった、で済む)。また、引用の葉書が写真版か翻字かにも触れていない。翻字なら「気おつけて」は写しの誤りの可能性があり、校閲者が疑問を出す動機はまさにそこにある。職業の論理が書けていないので、疑問出しがただの間違い探しに見えます。
「赤は印刷所への指示、鉛筆は著者への疑問。」/「私は鉛筆を持って、少し迷ってから、欄外に「ママ」と書いた。」
冒頭でわざわざ二本の使い分けを宣言したのに、クライマックスの「初めてのママ」がどちらの道具で、どちらの資格(疑問か指示か)で書かれたのかが曖昧です。ママを鉛筆で書くなら、それはまだ「ママでよいですか?」という疑問にすぎない。彼女が**変わった**瞬間を書くなら、変わったのは筆記具のほうであるべきです。せっかくの装置を、いちばん効く場所で使っていない。
「それを直してしまえば、葉書は正しくなるけれど、お母様はいなくなってしまう。」「校閲とは間違いを正す仕事だと思われがちだが、本当は、何を直して何を残すかを決める仕事なのだと、いまでは思う。」
前者はぎりぎり許せるが、後者は完全に解説文です。班長の「お袋さんの字なんだろう」がすでに全部言っている。同じ内容を抽象語で言い直すたびに、班長の一言の値打ちが下がっていく。エッセイの主題を主題文として書いたら、それはもうエッセイではなく要約です。
「私はしばらく、その意味を考えていた。」
この一文は、教師の回想にも、料理人の回想にも、そのまま置ける。考えていた中身(辞書を引き直したのか、葉書の字を想像したのか、自分の祖母の字を思い出したのか)を書かなければ、人物の思考は存在しないのと同じです。
残すべきは四つ。「気おつけて」の葉書、万年筆の線と「ママ」、赤鉛筆を削りながらの班長の一言、そして少年の日記の前で筆記具を持ち替える瞬間。削るべきは、雨と匂いの書き割り、留保語尾、最終段の主題解説。改稿では、引用が翻字であることを一行で押さえて疑問出しの職業的根拠を作り、初めてのママは「鉛筆ではなく赤鉛筆を取った」という動作で書いてください。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。