核は強い。アクセルのない、止めることだけが許された助手席のペダル。本気で踏んだ日の、血の気の引いた教習生の顔と、何も知らずに通り過ぎた自転車。そして、踏まないことが正解になる卒業検定の助手席。この三つだけで一本立つ。問題は、書き手がその三つを信用せず、桜の書き割りで幕を開け、留保語尾で自分の判断をぼかし、最終段で「仕事の中身が変わった」と図解して回収してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、補助ブレーキという一点物の装置を持ちながら、いちばん効く場所でその足を使い切れていないこと。職業エッセイは、その職業の手つきが嘘だと全部が嘘に見える。
「春の路上教習コースには桜が咲いていて、初々しい教習生たちが緊張した面持ちでハンドルを握る——そんな季節から、私の指導員人生は始まった。」
桜、初々しさ、緊張した面持ち。三点セットで「青春の出発」を安く調達しています。教習所の春に本当に立ち会った人間が思い出すのは、桜ではなく、年度替わりで急に増える教習生の予約表か、まだ寒い朝の車内の曇りか、自分の担当が一気に新人だらけになる気配のはずです。雰囲気が人物より先に立っており、生成された“それっぽさ”の典型。しかも「初々しい教習生」は、この後の「不安の場所」という鋭い観察と矛盾する——彼女は初々しさなんて見ていない、怖がる場所を見ている人なのに。
「最初は意味がわからなかったと思う。」「あのとき止めなかったらどうなっていたか、その子はたぶん、私よりずっと長く考えている。」「仕事の中身を変えてきたのかもしれない。」
指導員は判断で生きている職業です。踏むか踏まないか、ハンコを押すか押さないか、〇.一秒で決める。その人物の回想が「〜と思う」「たぶん」「〜かもしれない」で薄められているのは、緊張した若手の心理ではなく、断言を避ける作者の保険に見える。とくに「最初は意味がわからなかったと思う」は、自分の過去の心情にまで「と思う」を付けていて、語り手が自分自身を観察できていない。十一年踏まずに済んだ日を数えてきた人間なら、わからなかったかどうかくらい、覚えているはずです。
「私の足は、考えるより先にペダルを踏み抜いていた。」
本気で踏んだ場面は、このエッセイの心臓です。だからこそ「考えるより先に」で済ませてはいけない。補助ブレーキは運転席のブレーキより手前にあり、踏み込みのストロークも、伝わる重さも、自分の車のそれとは違う。十一年その足を浮かせてきた人なら、踏み抜いた瞬間に右足の裏に来た床の硬さ、シートベルトが胸に食い込んだ感触、自分が声を出したのか出さなかったのか——身体で覚えているはずです。「考えるより先に」は、踏んだことのない人でも書ける一文。せっかくの一点物の装置を、観念で通り過ぎています。
「ハンドルを握る手の高さ、ミラーを見る頻度、交差点の手前で吸う息——そこに、その人がどこを怖いと思っているかが、全部出る。」
観察の宣言としては良い。しかし「全部出る」と言い切った後、その全部が一例も具体化されない。手の高さが高い子はどう怖がっていたのか、ミラーを見すぎる子は何が不安だったのか。一人でいいから、固有名のない「ある教習生」を立ち上げて、握る手が10時10分より上にあった、とか、合流の前に三回ミラーを見た、とか書けば、「全部出る」は宣言から証拠に変わる。いまは観察者を名乗る人物が、観察の結果を一つも見せていない。
「私は「踏むこと」から「踏まないこと」へ、そして「何もしないこと」へと、仕事の中身を変えてきたのかもしれない。助手席のブレーキが、私をいまの私にしてくれたのだと思う。」
成長譚の判子を自分で押して終わっています。「私をいまの私にしてくれた」は、どの起源神話エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、クボデラアキである必然がない。しかも「踏むこと→踏まないこと→何もしないこと」という三段の図解は、本来は検定の場面が動作で見せるべきものを、作者が先に要約してしまっている。先輩の「踏まんで済むように、先を読むことや」が、すでに全部言っているのです。同じことを抽象語で言い直すたび、先輩の一言の値打ちが下がる。
「踏まずに済んだ日を、私は今日も数えている。」「誰かの不安の場所を、私が代わりに見ていてあげられた日だから。」
前者は良い。タイトルとも響き合い、この人物の核そのものです。問題は後者で、「見ていてあげられた」という恩着せがましさが、それまでの乾いた観察者の像を急に湿らせる。この語り手の強さは、感情を足さずにペダルの上に足を浮かせていることにあった。最後の一行で「あげられた」と言った瞬間、彼女は観察者から、いい話をする人になってしまう。数えている、で止めるべきでした。
「初めて補助ブレーキを本気で踏んだ日のことは、よく覚えている。」
導入として機能はしているが、「〜の日のことは、よく覚えている」は、料理人の回想にも、教師の回想にも、そのまま置ける汎用の入り。よく覚えているなら、覚えている中身——その日の曜日、コースのどの交差点、教習生が何人目だったか——を一つ先に置けば、文は彼女のものになる。第一稿には曜日の話題(路上コースは曜日で混み方が違う、といった指導員固有の感覚)が出てくる余地があったのに、使われていません。
残すべきは四つ。先輩の「踏まんで済むように、先を読むことや」、本気で踏んだ日の身体の感触と教習生の顔、ハンコを押すときの迷い、そして「踏まずに済んだ日を数えている」という核。削るべきは、桜の書き割り、留保語尾、最終段の三段図解と自己赦し、「見ていてあげられた」の湿り。改稿では、本気で踏んだ場面を観念ではなく右足の感触で書き、「不安の場所」を一人の具体的な教習生で証明し、検定の「何もしない」は説明せず動作で見せること。意味はペダルが運ぶ。説明が運ぶのではない。