クボデラアキ(33歳・自動車教習所の指導員11年)
教習車の助手席には、もう一つブレーキがある。補助ブレーキという。運転席の足元と同じ位置に、もう一つだけ、ブレーキペダルが生えている。アクセルはない。助手席の人間に許されているのは、止めることだけだ。指導員になって十一年、私はずっとこのペダルの上に右足を浮かせて、他人の運転を見てきた。
春の路上教習コースには桜が咲いていて、初々しい教習生たちが緊張した面持ちでハンドルを握る——そんな季節から、私の指導員人生は始まった。二〇一五年、二十二歳のときだった。最初に組まされた先輩は、無口な人だった。助手席に座った私に、その人は言った。「指導員の仕事はな、踏むことやない。踏まんで済むように、先を読むことや」。
最初は意味がわからなかったと思う。補助ブレーキがあるのだから、危なくなったら踏めばいい。そう考えていた。でも先輩は、ほとんど踏まなかった。教習生がふらついても、信号が黄色になっても、先輩の足はペダルの上で浮いたまま、動かない。その代わり、口が動く。「はい、ミラー」「もう一回ミラー」「曲がる前に、首振って」。声で運転を導いて、足は最後の最後まで取っておく。
運転には性格が出る、とよく言われる。でも十一年見てきて思うのは、出るのは性格そのものではなくて、その人の「不安の場所」だということだ。怖がる場面が、人によって違う。狭い道で固まる人、合流でアクセルを抜けない人、右折のタイミングをいつまでも待ってしまう人。ハンドルを握る手の高さ、ミラーを見る頻度、交差点の手前で吸う息——そこに、その人がどこを怖いと思っているかが、全部出る。
S字とクランクは、教習所の中のコースで練習する。脱輪する子は、だいたい同じところで脱輪する。前輪が通った道を後輪も通ると思い込んでいる子だ。内輪差という言葉は知っているのに、体が信じていない。私はそういう子の隣で、補助ブレーキに足を置いたまま、何度も同じことを言う。「後ろのタイヤは、前のタイヤより内側を通るからね」。脱輪しても、車は壊れない。だからここでは、踏まない。覚えてもらうために、あえて踏まないこともある。
初めて補助ブレーキを本気で踏んだ日のことは、よく覚えている。路上だった。見通しの悪い交差点で、教習生が一時停止の標識を見落とした。一瞬の判断だったと思う。私の足は、考えるより先にペダルを踏み抜いていた。タイヤが鳴って、車が前のめりに止まった。横断歩道の手前だった。横を、自転車が一台、何も知らずに通り過ぎていった。隣の教習生の顔を見た。血の気が引いて、ハンドルを握ったまま、しばらく動けずにいた。あのとき止めなかったらどうなっていたか、その子はたぶん、私よりずっと長く考えている。
教習原簿というものがある。教習生一人ひとりの、何時間目に何をやったかを記録する紙だ。一時間終わるごとに、指導員がハンコを押す。私のハンコが一つ増えるたびに、その子は卒業に近づく。ハンコを押すとき、私はいつも少し迷う。この子を、もう一人で走らせて大丈夫か。助手席のブレーキなしで、世界に出して大丈夫か。それを決めるのが、ハンコの重さなのだと思う。
卒業検定の日、私は検定員として助手席に座ることがある。検定中は、原則として何も言ってはいけない。声をかけることも、手を貸すこともできない。補助ブレーキを踏んだら、その時点で不合格になることもある。つまり検定員の仕事は、何もしないことだ。十一年かけて、私は「踏むこと」から「踏まないこと」へ、そして「何もしないこと」へと、仕事の中身を変えてきたのかもしれない。助手席のブレーキが、私をいまの私にしてくれたのだと思う。
高齢者講習の補助席に座る日もある。長く運転してきた人たちの隣で、私はやはり足を浮かせている。踏まずに済んだ日を、私は今日も数えている。一日が終わって、ペダルを一度も踏まなかった日は、いい日だ。誰かの不安の場所を、私が代わりに見ていてあげられた日だから。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。