核は強い。フォーマルでなく「一番好きな服」を選んでくること、「お好きな顔でどうぞ」という店主の一言、撮り直し三回目の「これでいいか」、そして納品した一枚がいつ使われるかを写真館は知らないという構造。この四点だけで一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用せず、冬の光と紙の匂いの書き割りで場面を立ち上げ、最終段で主題を一行に要約して自分で赦してしまっていることだ。とりわけ惜しいのは、撮影の手順に精通しているはずの語り手が、肝心の遺影撮影の段取りをほとんど見せていないこと。職業エッセイは、職業の手つきで嘘をつくと全部が嘘に見える。
「遺影は人生最後の一枚ではなく、その人のいちばん良い顔なのだ。元気なうちに撮りに来た方々が教えてくれたのは、そのことだった。」
エッセイの主題を主題文として書いてしまっている。これはもうエッセイではなく要約です。「一番好きな服を持ち込む」という描写がすでに「いちばん良い顔」を全部言っている。同じ内容を抽象語で言い直すたびに、服の描写の値打ちが下がる。しかも「〜が教えてくれた」は、どの気づき系エッセイの末尾にも貼れる汎用シールで、クメアスカである必然がない。
「窓の外には冬の柔らかな光が差し込んでいて、撮影室には紙とインクの匂いが静かに満ちていた。」
光、匂い、静けさ。三点セットで「情緒ある撮影室」を安く調達しています。この一文は前作の批評でも指摘された型で、書き手はまた同じ罠に落ちている。八年その撮影室にいる人間から出てくるべきは、冬の光ではなく、背景紙を引き出すときのロールの軋みか、青の紙に乗る白髪の写り方か、レフ板のスタンドの脚の位置のはずです。雰囲気が人物より先に立っている。
「どこに椅子を置くかで、その撮影の温度が決まるような気がして」/「そのことの意味を考えていた。」
八年やった人間は、付き添いの椅子をどこに置くかを「気がする」では決めない。レンズの死角で、本人から見えて、付き添いが前のめりにならない位置——理由を言えるはずです。「気がして」「考えていた」は、断言を避ける作者の保険であって、現場で椅子を一脚動かしてきた人の手つきではない。とくに「考えていた」は中身が空で、何を考えたのかが書かれていない。
「レフ板を顎の下に少し高めに返すと、影が消えて、その人の迷いも一緒に消える。」
「迷いも一緒に消える」は観察ではなく詩的な飛躍です。レフ板で消えるのは物理的な影だけで、迷いは消えない。前半の即物的な描写(顎の下、少し高め)が良いだけに、後半の比喩がそれを台無しにしている。本当に見ているなら、迷いは消えず、迷ったままシャッターが落ちる三回目の顔——のほうにこそ書くべきものがある。観察を比喩で上書きしないこと。
「あとはシャッターの前の、構えが落ちる数十秒を待つ。」
これは前作(七五三)で既に使った決め台詞の流用です。今回の題材は遺影で、待ち方も違うはずなのに、「構えが落ちる数十秒」で済ませている。前撮りの遺影に固有の手順——本人に何枚見せて選ばせるか、付き添いに確認を取るか取らないか、撮り直しを本人から言い出させるのか店主が促すのか——が書かれていない。職業の固有性が消え、汎用の「撮影」になっている。
「考えてみれば不思議な仕事だ。いつ開くとも知れない一枚を、本人の立ち会いのもとで作り、本人に選んでもらい、そして手放す。」
「写真館はいつ使われるか知らない」という構造は、その前の段の「あとはその家の時間に渡してしまう」が既に十分に出している。それを「考えてみれば不思議な仕事だ」と語り手が指さして解説した瞬間、読者が自分で気づく余白が消える。不思議さは、説明されると不思議でなくなる。動作で見せた構造を、抽象文で二度なぞらないこと。
「私はしばらく、そのことの意味を考えていた。」
この一文は前作の批評でも、コウノアサコ作の批評でも指摘された定型句です。教師の回想にも、料理人の回想にも、そのまま置ける。「考えていた」中身——たとえば、五年の保管期間が切れる前に焼き増しの電話が来た一件を思い出したのか、まだ来ない電話を待っているのか——を書かなければ、思考は存在しないのと同じ。シリーズで二度同じ穴に落ちるのは、書き手の癖です。
残すべきは四つ。「一番フォーマルな服ではなく一番好きな服を持ち込む」具体、「お好きな顔でどうぞ」、撮り直し三回目の「これでいいか」、そして納品した一枚を写真館は知らないまま手放すという構造。削るべきは、冬の光と紙の匂いの書き割り、「気がして」「考えていた」の留保語尾、「迷いも消える」の比喩的上書き、そして最終段の主題直叙。改稿では、椅子の位置を理由とともに言い切り、遺影固有の段取り(選ばせ方・付き添いへの確認)を一つ立て、結びは「いちばん良い顔」と言わずに、三回目の顔か、まだ来ない電話の一行で終えること。意味は動作が運ぶ。説明が運ぶのではない。