核は強い。竹箸でしか箔を扱えない理由(指で触れればそこだけ溶けて消える)、漆の「乾き際」という名づけられた一瞬、汗を扇げない夏の部屋、そして「箔足」を光の向きに揃えると継ぎ目が消えるという一点。ここには素人には書けない手つきがある。問題は、書き手がこの強い核を信用しきれず、冒頭と末尾を「金色の祈り」という既製の叙情で挟み、最終段で主題を自分で言い切って回収してしまっていることだ。一万分の一ミリを扱う人間が、文章では平気で「だと思う」と手を緩める。その緩みが、止めたはずの息を台無しにしている。
「人の息ひとつで飛んでいく金色の祈りを、私はこれから一枚ずつ置いていくのだ。」
「金色の祈り」は、仏壇エッセイの自動販売機から出てくる缶コーヒーです。金=祈り、という変換は誰でも書ける。この語り手が三十五年やってきたのは祈りを置くことではなく、漆の乾き際を見て金を伏せることだ。冒頭から抽象名詞で意味を先取りするから、続く具体(竹箸、乾き際)の値打ちが「祈りの説明」に格下げされてしまう。
「木や金属の箸では箔が貼りついてしまうからだと思う。」/「長年の勘とでも言うべきものが、ここで働くのかもしれない。」
一万分の一ミリの世界に生きる人間が、自分の道具の理由を「だと思う」で済ませるはずがない。なぜ竹なのかは、三十五年の手が断定で知っていることだ(静電気が起きないから、脂が乗らないから、しなって箔を吸わないから――どれかを彼は知っている)。「勘とでも言うべきもの」は、勘を持っている本人ではなく、勘を外から眺めている作者の言い方です。留保語尾は謙虚ではなく、断言を避ける保険に見える。
「結局のところ、息を止める仕事が箔押しなのだ。」「金色の祈りを支えているのは、職人が止めた息の積み重ねなのだと、いまでは思う。」
タイトルが「金箔の、息」なのだから、「息を止める仕事が箔押しなのだ」と本文で言ってしまうのは、自分のタイトルに自分で解説をつける行為です。読者はもう息を止める描写を読んでいる。意味は描写が運んでいる。それを抽象文で言い直すたびに、止めた息の生々しさが要約に痩せていく。「金色の祈り」を末尾でもう一度持ち出して締めるのは、1の缶コーヒーを最後にもう一本開けているだけです。
「竹箸と箔板は、今日も静かに私を待っている。」
これはデビュー作の結び「机の上の彫刻刀と札は、今日も静かに私を待っている」と同じ判子です。同じ書き手の癖として味わう余地はあるが、二作続けて道具の静物画で締めるのは、余韻の自動装置になっている。道具に語らせる結びは、一度使ったらしばらく封印すべきです。
「乾き際を待つあいだ、私はただ漆の表面を見ている。」
「ただ表面を見ている」は、見ていない人の書き方です。乾き際を見極める人間は、表面の「何」を見ているのかを言えるはず――艶が引いていく具合か、息を吹きかけたときの曇りの戻り方か、指の腹を近づけたときの吸いつきか。プロは光の動きで乾きを読む。そこを「ただ見ている」で流すと、肝心の見せ場で目を閉じているのと同じです。
「一枚置き終わって息を吐くまでの長さを、私は数えたことがない。たぶん、思っているより長い。」
この一文は、エッセイ全体の急所であるはずの「止めた息の長さ」を、わざわざ「数えたことがない」と言って測定から逃げています。題材が息なら、ここで一度くらいは具体に踏み込むべきだ――吐いたあとに軽くめまいがする、とか、一枚で肩が凝る、とか、身体に起きる事実が一つあれば、抽象の「長い」より千倍効く。「たぶん」も2と同じ留保で、いちばん書くべき場所で書き手が後ずさりしている。
「直したと分からないのが、いちばんいい修復なのだと思う。」
これは修復職人なら誰でも、どの工程についても言える格言です。前の文で「新しい箔をわざと少しくすませる」という具体の動作をすでに書いているのだから、格言はいらない。動作が言い切ったことを、抽象でもう一度言うと、動作の鋭さが鈍る。しかも「だと思う」付き。職業の核心を語るところで留保するのは、いちばんやってはいけない。
残すべきは五つ。指で触れれば溶けて消える箔、漆の「乾き際」、箔足を光の向きに揃えて継ぎ目を消すこと、新しい箔をわざとくすませて新旧の艶を合わせること、そして汗を扇げない夏の部屋。削るべきは、冒頭と末尾の「金色の祈り」、すべての「だと思う/かもしれない」、最終段の主題解説、前作と同じ道具の静物画の結び。改稿では、竹を使う理由を一つ断定で書き、乾き際に「何を見ているか」を一つ具体で書き、止めた息は身体に起きる事実(めまい・肩・吐く音)で示すこと。意味は身体が運ぶ。説明が運ぶのではない。