クラタジュンジ(57歳・仏壇修復師35年)
金箔押しの日は、朝いちばんに窓を閉める。エアコンを切り、扇風機を止め、部屋から風という風を追い出す。金箔は一万分の一ミリしかない。人の息ひとつで飛んでいく金色の祈りを、私はこれから一枚ずつ置いていくのだ。
箔は四角い和紙にはさまって届く。一帖に何枚も、薄い金が紙の間で眠っている。竹箸の先で紙をめくると、金がふわりと持ち上がる。指で触れれば消える。本当に消えるのだ。金属なのに、爪の脂をつけただけで、そこだけ穴が空いたように溶けてなくなる。だから竹箸を使う。木や金属の箸では箔が貼りついてしまうからだと思う。
漆を接着剤に使う。下地に薄く漆を引き、それが乾く手前――生乾きの、指で触れるとわずかに糸を引くか引かないかの一瞬を待つ。これを乾き際という。早すぎれば箔が沈み、遅すぎれば食いつかない。乾き際を待つあいだ、私はただ漆の表面を見ている。漆がいつ乾くかは、その日の湿りと温みが決める。長年の勘とでも言うべきものが、ここで働くのかもしれない。
箔を置く瞬間、私は息を止める。口は箔から逸らし、横を向く。マスクはする。だが締めすぎると今度は自分の頬の動きで風が起きるから、加減がいる。竹箸で箔板から箔を移し、下地のすぐ上まで運び、そっと落とす。落とすというより、置くのを箔に任せる。漆が下から金を吸い上げ、金は吸い込まれるように面に伏せる。その間、私の肺は止まっている。
一枚では足りない。仏壇の柱も框も、何十枚もの箔を継いで覆う。継ぐときに重なりの線が出る。これを箔足という。重ねを光の流れと同じ向きに揃えると、線は消えてくれる。逆らうと、見る角度で筋が走る。素人が押した仏壇は、横から見ると箔足が網の目のように見える。職人が押した面は、どこで継いだのか分からない。一枚の金で覆ったように見える。
古い仏壇を直すと、新旧の箔の艶の差がいちばん難しい。何十年も煤と手脂を浴びた金は、深く沈んだ艶になる。新しい箔は、まだ尖った光を返す。直した場所だけが浮いて見える仏壇と、どこを直したか分からない仏壇の差は、この艶の合わせ方に出る。私は新しい箔を、わざと少しくすませることもある。直したと分からないのが、いちばんいい修復なのだと思う。
風のない夏の部屋は暑い。汗が額を伝う。だが扇げない。汗が箔に落ちればそこだけ曇る。私は手ぬぐいで額を押さえ、また息を止め、また一枚置く。一枚置き終わって息を吐くまでの長さを、私は数えたことがない。たぶん、思っているより長い。
結局のところ、息を止める仕事が箔押しなのだ。風を止め、息を止め、自分という生き物の気配を消して、ようやく一万分の一ミリの金が面に伏せる。金色の祈りを支えているのは、職人が止めた息の積み重ねなのだと、いまでは思う。竹箸と箔板は、今日も静かに私を待っている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。