核は強い。摩耗して半分しか読めない桶の文字、三十年同じ二十三番を抜きつづけた男が札を返さずに帰ったこと、二キロ多めに出る体重計が引き取り手なく玄関に残ったこと。物の行き先を一つずつ数えていく構成も、この書き手の身上に合っている。問題は、せっかく数を数えられる人が、最後に数えるのをやめて主題を語り出すこと、そして肝心の桶やカフェの場面で、見たはずの物がぼやけていることだ。この人は「淡々と数える」と決めた瞬間がいちばん強く、「意味を言おう」とした瞬間にいちばん弱い。
「物は捨てられたのではなく、形を変えて生き直しているのだ。そう思うと、湯を落としたあの淋しさも、いまでは静かな慰めに変わっている。散っていった道具たちこそが、店を閉めた私への、いちばんの餞だったのかもしれない。」
ここまで物を一つずつ数えてきた手つきが、最終段で全部ぶち壊しです。「第二の人生」「形を変えて生き直している」は、どの廃業エッセイの末尾にも貼れる汎用シール。さらに「私への、いちばんの餞だったのかもしれない」で自分を慰めて締めている。読者が桶や札や体重計から勝手に受け取るはずの感情を、作者が先回りして言葉にし、回収してしまった。前段でカフェの桶を見て「可笑しいような、淋しいような」と書けているのだから、この段はまるごと要らない。物の最後の一つを数えたところで、筆を置くべきです。
「湯のなくなった脱衣場は、夕暮れの光がいつもより淋しく差し込んで、それまで気づかなかった物の多さを、私に教えてくれるようだった。」
「夕暮れの光が淋しく差し込む」は、廃業・閉店の場面に自動的に湧いてくる安い書き割りです。前作(最後の湯を抜いた日)でも「夕暮れの光がすりガラスから」をやって、レビューで叱られたはずの手癖。光が人物より先に出てきて、空気で泣かせにいっている。この人が本当にその朝の脱衣場に立ったなら、出てくるのは光ではなく、湯を抜いたあとのタイルの冷えか、排水口に残った湯垢の匂いか、止めたボイラーの静けさのはずです。「物の多さを教えてくれる」と光に語らせるのも、作者の手抜き。物の多さは、このあと数える四十個や二十四本が勝手に教えます。
「湯が完全に引くまで、ずいぶん長い時間がかかった気がする。」(※前作)/「物は……生き直しているのだと思う。」「いちばんの餞だったのかもしれない。」
桶は四十個、ロッカーは二十四本、客は四十二人と、この語り手は数を断定できる人です。前作の改稿では栓が抜けるのを「七分」と言い切って強くなった。それなのに本稿の締めは「思う」「かもしれない」で逃げている。これは怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見える。数えられる人なら、慰めだろうが何だろうが、言い切るか、言わずに数だけ置くかのどちらかです。
「棚の上に、見覚えのある黄色が並んでいた。私の桶だ。」「若い客が一つを手に取り、『かわいい』と笑っていた。」
この場面が本稿の山なのに、観察が薄い。「自分の桶だ」と分かったなら、何で分かったかを書かなければ嘘になる。第二段でせっかく「字が縁から擦れて半分読めない」「黄色が湯に灼けて白い」と、桶の個体差を書いているのだから、カフェの棚で「字が右半分だけ消えたあの一個」を見つけられるはずです。それが廃業エッセイの「物の再会」を、概念から具体に変える。「若い客が『かわいい』」も、いかにも生成された都合のいい点景。本当にその店で見たのは、桶に何が活けてあったか、値段がいくらだったか、店員が桶の由来を知っていたかどうか、のはずです。
「来るたびに同じ札を抜く人が、長年やっていると、何人もいる。なかでも一人、三十年ずっと二十三番だった男がいた。」
「何人もいる」という一般化が、せっかくの二十三番を薄めています。エッセイが要るのは「何人も」ではなく、二十三番の男ただ一人だ。前置きの一般論を消して、いきなり「二十三番を、三十年抜きつづけた男がいた」と始めれば強い。しかも「木の札は人の手の脂で番号のあたりだけ飴色に光っていた」という、この稿でいちばん良いディテールが、説明の後ろに埋もれてしまっている。これは前に出すべき観察です。
「桶はカフェで、下足札は誰かの引き出しで、体重計は私の玄関で。」
一見すると気の利いた列挙だが、これは「それぞれの場所で生きている」という主題を、作者が読者に代わって作文した一文です。本文ですでに桶もカフェも体重計も玄関も具体的に書いたのだから、ここで並べ直すのは要約にすぎない。とくに「下足札は誰かの引き出しで」は、本文では二十三番の男の上着の内ポケットという具体があったのに、「誰かの引き出し」と急に汎用化して弱くなっている。書いた具体を、自分でぼかしてはいけない。
「『これだけ揃ってると、まあ、これくらいですかね』と出した見積もりは、思っていたより、ずっと安かった。私は何も言わず、その紙にうなずいた。物の値打ちというのは、使った年月とは関係がないらしい。」
前半は良い。業者が蝶番を開けて錆を確かめ、電卓を叩く手つきは、見ている人の文章です。ところが最後の「物の値打ちというのは、使った年月とは関係がないらしい」で、また主題を地の文で言ってしまう。見積もりの「いくら」を書けばいい。二十四本でいくら、と数字が出れば、年月と値打ちの落差は読者が勝手に感じます。この語り手は数を言える人なのに、肝心の金額だけぼかして、代わりに教訓を置いた。順序が逆です。
残すべきは四つ。字が擦れて半分読めない桶、二十三番を三十年抜いて札を返さずに帰った男、二キロ多めに出る玄関の体重計、そしてカフェの棚で「レトロ雑貨」と呼ばれた自分の桶。削るべきは、夕暮れの光の書き割り、「思う」「かもしれない」の留保語尾、最終段の「第二の人生」「餞」の自己赦し、六段目の列挙。改稿では、ロッカーの見積もりに具体的な金額を入れ、カフェの桶は「字が右半分だけ消えたあの一個」と特定し、最後は道具の最後の一つ(体重計でも桶でもよい)を数え終えたところで、何も意味を足さずに筆を置くこと。意味は、数えられた物が運ぶ。作者が運ぶのではない。