クログチシノブ(46歳・市議会の会議録係21年)
会議録を起こすのが私の本来の仕事だが、定例会の朝は、傍聴券を渡す窓口にも立つ。議場の上、二階の手すりの内側にあるのが傍聴席だ。そこは会議録に一行も残らない。残らない場所を、受付の名簿だけが覚えている。民主主義の原点は、この席にあるのだと思う。
傍聴の手続きは簡単だ。受付に来て、名簿に住所と氏名を書く。私が番号入りの傍聴券を一枚渡す。それだけで、誰でも議会を見られる。名簿の罫線は二十人分しかないが、ふだんはその半分も埋まらない。三人の日もある。市政の最前線は、たいてい客席が空いている。
その空いた席に、毎回来る人がいる。開会の三十分前にはもう廊下に立っていて、扉が開くと、決まって最前列のいちばん端に座る。手すりに近い、議長席がよく見える席だ。名簿の筆跡で分かる。同じ角張った字が、定例会のたびに一行目に並ぶ。私はその人の券の番号を、いつも一番から渡すようになった。
席に着いた人たちを上から見ると、二種類に分かれる。膝にノートを広げてメモを取る人と、腕を組んで身じろぎもせず聞く人だ。メモの人は、たぶん何かを持ち帰る用がある。腕を組む人は、ただ確かめに来ている。常連は後者だった。一度もペンを持たず、議事の最初から最後まで、同じ姿勢で議長席のほうを見ていた。
傍聴の動機はさまざまだ。自分の出した陳情がどう扱われるか、その一点だけを見に来る人がいる。地域の道路の議題がかかる日に、近所で連れ立って来る人たちがいる。会社を定年で退いて、ただ議会を見るのが好きになったのだと、受付で話してくれた人もいた。それぞれの理由が、同じ二十席に座っている。みんな、それぞれの思いを胸に、この席へ足を運ぶのだ。
一般質問の日は、席が急に埋まる。質問に立つ議員の後援会の人たちだ。受付の列からして分かる。同じ会の名前を出し、どこか揃いの雰囲気で来る。お目当ての議員が登壇するあいだだけ熱心に聞き、終わると連れ立って帰っていく。名簿の同じ欄に、似た住所がいくつも続く。誰の質問の日かが、名簿を見ただけで分かってしまう。
社会科見学の小学生が来る日もある。先生に引率されて、二列に並んで階段を上がってくる。受付で人数だけ確認し、まとめて席へ通す。不思議なことに、議場がいちばん静かになるのはこの日だ。子どもたちは声を上げない。手すりから身を乗り出して、大人が大勢いる広い部屋を、ただ見下ろしている。何が行われているのかは、たぶん半分も分かっていない。それでも、見ている。
傍聴席に通す前に、私は決まった説明をする。拍手はできません。声を出して賛成も反対もできません。途中で退席するときは静かに、と。発言も拍手も禁じられた席で、人はただ見届けることしかできない。何もできない席に、それでも来る。その事実の前に、私はいつも立ち止まる。
会議録には、傍聴席のことは何も書かれない。誰が来たか、何人だったか、常連がどんな顔で聞いていたか、本文には一行も残らない。残るのは受付の名簿だけで、その名簿も、会期が終われば書庫の隅にしまわれる。けれど考えてみれば、傍聴席こそ議会の鏡なのだ。誰が、何を見届けに来たか。その風景を知っているのは、券を渡す私だけなのだと、いまの私は思う。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。