クズマキアオ(34歳・オーケストラの譜面係12年)
私は音を出さない。演奏の前に譜面台へ楽譜を置き、終われば回収する。十二年、私が手で触れてきたのは音楽ではなく紙だ。
オーケストラの楽譜の多くは、買わずに借りる。出版社からの貸し譜で、公演が終われば返す。返す前に、奏者が鉛筆で入れた書き込みを消さなければならない。それが譜面係の最後の仕事だった。
二〇一四年、二十二歳でライブラリアンになった。最初の本番が終わった後、客のいないホールの椅子を団員が畳んでいくあいだ、私はライブラリーの机で第二ヴァイオリンのパート譜を消していた。空調が低く唸っていた。消しカスが指の脇に溜まった。
三段目で手が止まった。ある旋律の頭の音に、弓を下げる⊓の記号が薄く残っている。私たちの楽団は上げる∨で弾いていたから、これは前に弾いた誰かの指定だ。消しゴムをかけても、∨の下から⊓が透けて戻ってくる。前の奏者が強く書いたぶん、紙の繊維に溝ができていて、そこだけ消えない。この貸し譜の送り状には、前の借り手としてプラハの歌劇場の名が刷ってあった。⊓を引いたのは、その弦の誰かだ。
そこへ、忘れ物を取りに第一ヴァイオリンの首席が戻ってきた。私の手元を覗き込んで、静かに言った。「書き込みを消すとき、前の楽団の解釈も消してるんだよ」。それだけ言って出ていった。私は消しゴムを持ったまま、消えない⊓を見ていた。プラハではここを下げる。私たちは上げる。同じ一音を、弓は逆から触りにいく。
譜面係の仕事は、消すことだけではない。届いたパート譜が何枚あるか、版が混ざっていないか、欠けがないかを一枚ずつ数える。速い箇所でページをまたぐ難所は、奏者が一拍も手を離せないから、コピーを貼り継いで台紙に組み直し、めくる切れ目を直前の休符の小節へ寄せてやる。本番中は袖に立って、譜面台が傾かないか見ている。音は出さないが、音楽の物が全部こちらに来る。
消しゴムは硬さで紙への当たりが変わる。柔らかいと毛羽立ち、硬いと溝が残る。何種類も試したが、強い筆圧の跡だけはどれでも消えなかった。消し終えた束を梱包し、伝票を貼って出版社へ送り返す。返した先で、次の楽団がまた線を引く。プラハの⊓の上に、私たちの∨が薄く残ったまま。
まだ十二年だ。数えた紙の枚数は帳簿に残っている。消した線の数は、どこにも残らない。残るのは、消えなかった溝のほうだ。あの第二ヴァイオリンの、頭の音の、⊓。