編集者(匿名)による第一稿への指摘。対象:英語教科書のフィクション #2(第一稿)/書き手:モチヅキカナデ
全体要旨
第二回は、第一回の批評で指摘された癖(並列リスト・三つの理由・教材改善案二並列)の多くを抑制できており、改善が見える。「道案内が地図アプリに置き換えられている」という社会変化を、シリーズの主題(教科書英語の不自然さ)に重ねる角度は、本作独自の価値で、シリーズ二作目として成立している。問題は、本作で別の癖が浮上していること:(1)社会変化観察の便利さ、(2)三つの設計理由の隠れた再演、(3)ネイティブ口語サンプルの「躊躇い込み」演出、(4)教材ウェブ化の自社事例の混入。
私が最後に、知らない人に「駅はどこですか」と尋ねたのは、いつだったか。十年は経っているような気がした。十五年かもしれなかった。
このオープニングは、第一回のアメリカ人エピソードを削った代わりに、別の「現代社会観察」エピソードで導入する形になっている。書き手の体験から始める手つきは、エッセイとして自然だが、「最後に道を尋ねた日が思い出せない」というネタ自体が、現代社会論の定番フレームで、書き手独自の観察というよりは、よく流通する観察の借り物に見える。
第二稿では、「思い出せない」エピソードを削るか、「ふと考えてみても、最後に道を尋ねた日が思い出せなかった」程度に圧縮する。「十年は経っている/十五年かもしれない」と数えあげる手つき(前々シリーズ「訳せないことば」批評の「数を揃える対比導入」と同型)を取る。
(a)仮定法の文法練習を兼ねている、(b)知らない人に話しかけるときの礼節を、形式として教えている、(c)テストで「丁寧表現の英訳」を出題したときに、この形が標準解答になりやすい
第一回の批評で「三つの理由」並列を削るよう指摘した結果、本作では「(a)(b)(c)」の括弧書きで隠した三並列に変わっている。形は変わったが、構造は同じ。書き手の「教育設計の理由を三つ挙げる」癖が、形を変えて再発している。
第二稿では、(a)(b)(c) の構造を取り、「いくつかの設計理由が同時に働いている。文法練習にも使える、礼節を形式で教える、テストの標準解答に揃う」と地の文にまとめる。または、一つだけに絞る(最も中心の理由)。
"Yeah, just keep going down this street, and... uh, you'll see a Starbucks on the corner, and turn right there. The station is, like, two blocks down on the left, I think."
「実際のネイティブはこう言う」サンプルとして、躊躇い("and... uh")と保留語("like" "I think")を盛り込んだ口語を提示している。これは現代英会話の口語感を出す装置として機能するが、サンプルとしての作為が見える。実際のネイティブの応答は、もっと地域・年齢・性格で揺れて、ここまでテンプレ通りの「カジュアルな躊躇い込み」にはならないことも多い。
第二稿では、サンプルを短くする。「"Yeah, just go down this street, you'll see it on the left" のような、もう少し短い応答が多い」程度に留める。躊躇い・保留語をフルセットで入れた長尺サンプルは、書き手の「私はネイティブのカジュアルな話し方を知っている」という知識ショーケース化に近づく。
教育工学の現場で、私が最近関わっている案件のなかで、英会話教材のウェブ版に「地図連動」を加えてみたものがある。……このウェブ版は、まだ採用されていない。出版社の側で、地図連動が必要かどうか、議論中だ。
このセクションは、書き手の本業(教材ウェブ化)の自社事例を、エッセイの解決策パートに置いている。シリーズの主題(教科書英語の不自然さ)から、書き手の本業のセールスピッチに話が逸れる。読者は「これは望月奏のサービス紹介か」と感じる可能性がある。
第二稿では、自社事例セクションを削るか、極端に短くする。「地図と連動させる教材設計の議論はある」程度の言及に留め、自分が関わっている案件の話には踏み込まない。前シリーズ「マネー見出しの解剖」第三回で批判された「業界用語のバッジ」と同じ構造に近い。
教科書のクリーンさは、教育設計の合理性であり、同時に、現実との乖離の発生源である。
道案内のページは、英会話の練習ではなく、文法練習の素材として、生き残っている。
本作で強調太字が二箇所、それぞれアフォリズム調で置かれている。第一回・前シリーズで繰り返し批判された「アフォリズム化」の癖が、第二回で再発している。
第二稿では、強調太字を一つに減らすか、両方とも外して、平らな文で書く。「クリーンさは、教育設計の合理性と、現実との乖離の、両方の源だ」程度の地味な書き方に。
本回で書きたかったのは、それだけだ。教科書のクリーンさを、批判するのではなく、その合理性と限界を、両方見ること。
結末で「両方見ること」と方針を述べる手つきは、エッセイの締めとして整っているが、シリーズで毎回似た方針が繰り返される(第一回「合理性の裏返し」、第二回「両方見ること」)と、シリーズの方針宣言テンプレが見える。第二稿では、結末を「クリーンと乖離が、同じところで生まれている」だけにして、方針宣言の色を抑える。
第二回は、第一回の批評を受けて改善された箇所が多い一方、別の癖(社会観察オープニング、隠れた三並列、口語サンプルの作為、自社事例の混入、アフォリズム再発)が出てきている。シリーズの自己テンプレ化を、シリーズ序盤で意識的に崩すことが必要。
第二稿に向けて: