編集者(匿名)による第一稿への指摘。対象:英語教科書のフィクション #5(第一稿)/書き手:モチヅキカナデ
全体要旨
シリーズ最終回として、「拒絶のない六往復」の観察軸は新鮮で、これまでの四回の「保守的バージョンへの収束」とは少し違う角度(衝突を取り除いた友達関係の演出)を提示できている。最終回らしい締めとして、「教えるという行為のフィクション」のメタ視点も入れている。問題は、(1)最終回の演出が、前シリーズ「マネー見出し」最終回・「訳せないことば」最終回で批判されたパターン(書き手による総括の本文挿入)を、また再演している、(2)「教えるという行為のフィクション」のメタ議論が、シリーズの主題から遠く飛んでしまっている、(3)教材ウェブ版を出版社に戻す結末が、書き手の業務報告として整いすぎている、の三点。
これらの理由は、第一回から第四回まで、繰り返し出てきた。シリーズ全体を通じて、教科書英語のフィクション性は、教育設計の合理性の裏返しだ、というのが、私が辿ってきた観察だった。
シリーズ五回の総括が、最終回の中盤で、書き手自身の口で語られている。前シリーズ「マネー見出し」最終回・「訳せないことば」最終回でも、同じパターンが批判された。シリーズ最終回の本文中で書き手が総括をすると、読者の解釈の余地が消える。書き手が「これがシリーズの結論です」と提示してしまう。
第二稿では、この総括段を削るか、極端に短くする。「これは、これまでの回でも見てきた」一文程度に圧縮する。シリーズの教訓は、各回の積み重ねで読者に伝わる。最終回でわざわざ書き手が要約しない。
section-label:教えるという行為のフィクション
「教科書英語のフィクション性」が、教科書だけの問題ではなく、「教えるという行為」全体に共通する性質に、近いことだ。……教えるという行為は、現実の複雑さを、初学者が消化できる形に圧縮することで、成立する。
シリーズ最終回で、教科書英語の話から、「教えるという行為一般」のメタ議論へ、一段飛躍している。これは、シリーズに哲学的な収まりを与える効果はあるが、本作の他の部分(友達ダイアログの解剖)から、トーンが大きくずれる。読者は、最終回の途中から、教育哲学の論考を読まされている感覚になる。
かつ、「圧縮することで成立する/距離を埋めていく作業」という抽象命名は、第四回の批評で指摘された「ねじれ」のようなアフォリズム調と、構造的に近い。書き手の最終回演出として、メタ議論への飛躍が選ばれている。
第二稿では、この section 全体を削る。シリーズは「教科書英語の不自然さ」を扱うものであって、「教育一般のフィクション性」を論じるものではない。射程を、本来の主題に収める。
レビュー対象の教材ウェブ版を、私は今週中に、出版社に戻す予定だ。各章のダイアログには、私のメモがついている。……出版社の編集者と、英語教育の専門家が、これらをどう取り扱うかを判断する。
結末で、書き手が業務(教材ウェブ版のレビュー)を出版社に戻す、という業務報告で締めている。これはシリーズ全体の業務的な完結として整っているが、整いすぎている。「シリーズが終わるのと同時に、業務も終わる」という、フィクション的な符合が、便利すぎる。
第二稿では、業務報告を削るか、「レビューはまだ続いている」と、業務とシリーズの符合をずらす。最終回をシリーズ完結の演出に使わない。
本シリーズ五回ぶんで書いてきたのも、たぶん、その地味な検討のメモの並びだった。
シリーズ最終回の最終文。これが、シリーズの自己定義を、書き手の口で行う形になっている。前シリーズ「マネー見出し」最終回でも、同様の最終文での自己定義が批判された。書き手が「シリーズはこういうものでした」と最終文で言うと、シリーズが書き手の所有物として閉じる。
第二稿では、最終文を削るか、「これでレビューを終わる」程度の地味な業務的締めに変える。シリーズの自己定義を最終文で行わない。
本作の中盤、Yuki の応答が三回の異なる承諾語で構成されている、という指摘は、本作独自の鋭い観察。これは残して、深く掘る価値がある。第一稿のままでもよい。
承諾だけで構成されたダイアログは、保守的というより、人間関係の摩擦を取り除いた、滑らかな世界の演出に近い。教科書英語のなかの友達関係は、衝突しない友達関係として、設計されている。
強調太字。本作の中心テーゼで、シリーズ前回までの「保守的バージョン」とは違う、本回独自の発見として、価値が高い。残してよい。
ただし、「衝突しない友達関係」という命名は、社会学・教育社会学の専門領域に近い表現で、書き手のFP・教育工学の専門性とは少し方向が違う。第二稿では、命名を取って、「対立を含まない友達関係」のような、もっと記述的な表現に置き換える検討の余地。
第五回はシリーズ最終回として、「衝突を取り除いた友達関係」という新しい観察軸を持ち込めている。問題は、最終回の演出(シリーズ五回の総括、教えるという行為のメタ議論、教材ウェブ版の業務的完結、最終文の自己定義)が、すべて「シリーズをきれいに終わらせる」ために整えられすぎている点。シリーズ最終回の演出を、最終回の本文では行わない、というのは、過去シリーズで繰り返し批評されてきた指針。第五回の本作で、最終回演出が再発しているのは、書き手のテンプレートが固いことを示している。
第二稿に向けて:
シリーズ最終回として、終わらせ方に力を入れる代わりに、友達ダイアログの解剖だけを、五分の一の重さで書く。終わらせるのは、index.html の運営側の仕事。