モチヅキカナデ(授業資料制作アシスタント)
教材ウェブ版レビュー、第五章「友達/プラン作り」のページ。最終回として、もう一段だけ、見ておきたい。
Tom: Are you free this weekend?
Yuki: Yes, I am.
Tom: Let's go to the movies.
Yuki: Sounds good. What time shall we meet?
Tom: How about 10 a.m. at the station?
Yuki: OK. See you then.
このダイアログには、拒絶が一回も入らない。Tom が "Are you free?" と聞く、Yuki が "Yes, I am" と答える。Tom が "Let's go to the movies" と提案する、Yuki が "Sounds good" と受ける。Tom が時間と場所を提案する、Yuki が "OK" と確定する。提案→承諾→具体化が、滑らかに六往復で完結する。
現実の友達同士のプラン作りは、こんなに滑らかには進まない。"Are you free?" に対して、"Hmm, let me check" や "I think so, why?" や "Saturday yes, Sunday no" のような留保がまず入る。映画を提案されて、"Movies? What's playing?" や "I just saw one last week, how about dinner?" のような対案や条件付き同意が返る。時間と場所も、一発で決まらず、"10 is too early, can we make it 11?" のような調整が、何往復か入る。
教科書の六往復は、これらの調整を全部省略している。省略の結果、Yuki は Tom の提案を、一度も再検討せずに、全部受け入れる。これは、現実の友人関係のあり方ではなく、ペアワーク用に設計された、最も滑らかな承諾のシーケンスだ。
Yuki の応答は、"Yes, I am" "Sounds good" "OK" と、三回の異なる承諾語で構成されている。これは英語の承諾表現の練習として、教育設計上、効率的だ。学習者は、一つのダイアログのなかで、三つのバリエーションを覚えられる。
三つともポジティブな承諾、というのが、この回の大事な点だ。教科書のダイアログでは、提案に対する応答のバリエーションのほうに、文法的な焦点が当たっている。一方、提案を断る、留保する、対案を出す、という応答のバリエーションは、扱われない。"No, sorry, I'm busy" や "Maybe another time" は、別のページに分離されているか、扱われないまま、卒業まで続く場合もある。
これは、第一回から第四回まで見てきた、保守的バージョンへの収束のパターンとは、少し違う種類の選択だ。承諾だけで構成されたダイアログは、保守的というより、人間関係の摩擦を取り除いた、滑らかな世界の演出に近い。教科書英語のなかの友達関係は、衝突しない友達関係として、設計されている。
教科書のダイアログのなかで、Tom と Yuki は、一度も意見が食い違わない。
摩擦を取り除いた友達関係を、教科書が描くのには、いくつかの理由がありそうだ。教育設計上、ダイアログが滑らかに進むほうが、文法項目を集中して練習できる。教育倫理上、教材のなかでネガティブな対人場面を多く描くと、教育的配慮のチェックに引っかかる。文化的な配慮としても、衝突や対立を、初学者向けの教材で前面に出すのは、避けられる傾向がある。
これらの設計判断は、それぞれ合理的だ。中学生が英語を学び始める初期に、複雑な対人衝突の場面を、英語の文脈で覚える必要は、ない。まずは滑らかなダイアログで、文法と語彙を覚えてもらう。複雑な場面は、上の学年か、上級者向け教材に、譲られる。
譲られた先で、いつかは扱われる、という前提が、本来はある。だが現実には、その「いつか」が来ない学習者も、一定数いる。中学・高校の教科書で滑らかな英語を学んだあと、社会人になってから、英語で本気の議論や、英語での断りや、英語での意見の食い違いを、経験する場面に出会う。出会ったときに、教科書で覚えた "Sure" "Sounds good" "OK" が、ほとんど役に立たないことに、気づく。
現代の英語ネイティブが、提案に対して使う応答には、もっと幅がある。"Sounds good" は今でも使われるが、それ以外にも、"Yeah, let's do it" "Actually, I'd prefer ◯◯" "I'd love to but I can't this weekend" "Can we do it next week instead?" などの、留保や対案を含む応答が、日常的に使われる。
これらは、文法的には、現在進行形・条件法・未来形・前置詞句などを含むので、教育設計のうえでも、扱える素材だ。扱える素材だが、教科書では扱われない。扱われない理由は、おそらく、ダイアログの滑らかさを優先する伝統と、ペアワークの対称性と、テスト採点の標準化、の三つあたりに、ある。
これらの理由は、第一回から第四回まで、繰り返し出てきた。シリーズ全体を通じて、教科書英語のフィクション性は、教育設計の合理性の裏返しだ、というのが、私が辿ってきた観察だった。最終回の友達ダイアログでも、同じ構造が、最も平らに、現れている。
シリーズの最終回で、もう一段、書いておきたいことがある。それは、「教科書英語のフィクション性」が、教科書だけの問題ではなく、「教えるという行為」全体に共通する性質に、近いことだ。
教えるという行為は、現実の複雑さを、初学者が消化できる形に圧縮することで、成立する。圧縮された形は、現実の複雑さから、必然的に距離を持つ。距離があるから、初学者は混乱せずに学べる。学んだあとで、距離を埋めていく作業は、初学者が、教える側から、自分の体験する側へ、軸足を移すプロセスのなかで、進む。
教科書英語のフィクション性も、この一般的な構造の一例として、見ることができる。教科書は、英語の現実の複雑さを、五行や六行のダイアログに圧縮する。圧縮されたダイアログは、現実とは違う。違うことが、初学者の入口として、機能している。卒業後、ネイティブと話したり、海外で生活したり、英語で議論したりするなかで、距離を埋めていく作業が、各学習者のなかで進む。
進むかどうか、は、教科書の責任ではない。社会のなかで、誰がどうやって距離を埋めていくかを支えるかは、別の問題だ。教科書は、入口を作るところまでが仕事で、出口の先のサポートは、教科書の外側で組まれる。
レビュー対象の教材ウェブ版を、私は今週中に、出版社に戻す予定だ。各章のダイアログには、私のメモがついている。「補足ボックスを脇に置く」「設定を会社受付に変える」「迷いを含む形の補足」「意見が食い違う応答の例」など、教育設計のうえで、置き換え可能な範囲のメモが並んでいる。出版社の編集者と、英語教育の専門家が、これらをどう取り扱うかを判断する。判断の結果は、来年度のウェブ版に、一部反映されるかもしれないし、全部却下されるかもしれない。
判断の結果がどちらになるかは、私には分からない。ただ、今回のレビューを通じて、私自身が学んだのは、教科書英語の「不自然さ」を批判するのが、教材ウェブ化の仕事ではない、ということだった。批判ではなく、設計の合理性と限界を見て、どこに何を足せるかを、地味に検討する。それが、教育工学の現場の仕事に近い。本シリーズ五回ぶんで書いてきたのも、たぶん、その地味な検討のメモの並びだった。
——補記:この第一稿は公開後に辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。シリーズ最終回。