新しい書き手サカイ・ユウ(大学2年生、文学部)の第一稿「地図のない課題」について、研究室の五人から建設的な批評を集めた。彼女は研究室の常連ではなく、外部の書き手として今回初めて寄稿した。彼女の視点は研究室の既存キャラの誰とも違っていて、誰も「自分の領域」として扱えない。だからこそ、五人それぞれの角度から、彼女の文章を読み直す価値があった。
批評の順序は、教員側の論理(フジワラレン)、ルール推定の先輩としての応答(マーク)、言葉の観察(ソノダマリ)、同世代としての並走(サカモトミユ)、AI時代の感想文の位置(シマダ)の五つ。最後に総括を置いた。
たぶん先生は、ボーナス問題として出してくれている。やさしさだ。それは本当にやさしさだと思う。でも、地図のない道を怖いと感じる人間が教室にどれくらいいるのか、先生はもしかすると数えていないのかもしれない。
研究の現場から言わせてもらえば、これは正確な指摘だ。教員が「自由に書いていい」と提示する時、そこには「自由を歓迎する学生」を暗黙のデフォルトとして置く構造がある。実際の教室には、自由を恐怖として受け取る学生が一定割合いる。その割合を測ったデータも、実は存在する。ただ、教員側は授業設計の段階でその数を引いていない。
本稿の鋭さは「数えていない」と限定したことだ。「先生が悪意でやっている」ではなく「数える行為そのものが教員の業務に組み込まれていない」と指摘している。この距離感が、彼女の論の核心である。
ただ、本稿はここで止まる。数える側に何を要求するのか、教員が明日から何を変えればよいのかを、彼女は提案しない。それは彼女の立場では正当な保留である。けれど、第二稿では、もう一歩だけ、教員側に渡せる具体的な代替案——たとえば「自由に」の代わりに「次の三つから選んで」と書く形式——を提示してほしい。提案を持つエッセイは、批判を持つエッセイより遠くへ届く。
感想は、先生ごとにルールが違う。毎回、そのルールを早めに推定する。推定した内容は、手帳の後ろのほうに書いておく。A先生は「学んだこと」を求める。B先生は「疑問に思ったこと」を求める。C先生は、一行だと露骨に不機嫌になる。
サカイさんの「ルール推定」の段落は、本稿で最も具体的で、最も生きている。これを読んで、僕は二十年以上前、栃木の小学校でJET-ALTをやり始めた頃のことを思い出した。日本語が分からないまま、職員室の各先生の顔色を読み、各クラスの空気を読み、何を言えば笑われるか、何を言えば叱られるかを、毎日推定していた。手帳には「鈴木先生:質問されたら、まず『そうですね』を入れる」「佐藤先生:英語よりジェスチャー多めにする」と書いていた。サカイさんの手帳の後ろのページと、僕の手帳は、たぶん同じ構造をしている。
気になったのは、サカイさんが「ルール推定」を、生き残りの戦略として書いていることだ。それは正しい。けれど、二十年やってみて分かったのは、ルール推定そのものが、ある種の固有の知性になるということだ。推定が上手な人は、推定の素材が変わっても、新しい場所でも生きていける。彼女の手帳の後ろのページは、彼女の財産になっている。
第二稿では、推定を生き残りの暗いものとして閉じないで、推定の中にも喜びや発見がある可能性を、もう少し開いてみてほしい。「C先生は、一行だと露骨に不機嫌になる」と書いた瞬間、彼女は明らかにC先生を観察している。観察は、暗い戦略でもあり、同時に明るい好奇心でもある。
授業の中で出てきた言葉を使いながら、スライドのコピペにはならず、「自分が新しく学んだこと」を書くと点がつきやすい——この「覚えた」の束で、僕はなんとか日々を過ごしている。
「自分が新しく学んだこと」というフレーズは、私が定型句解剖シリーズで何度も扱ってきた、典型的な学校型ジャーゴンだ。サカイさんがこの一語を引用符付きで使っているのは、すでに彼女がこの語を観察対象として捉えている証拠である。良い兆候だ。
ただ、本稿はその先に踏み込まない。「学んだこと」の中身——本当に学んだこと、学んだことにしたこと、学んだことにしたくて学んだことを思い出せなかったこと——のグラデーションを、彼女は知っているはずだ。それを書いてほしい。固有の授業名と、固有の感想文の文面が、本稿には欠けている。第二稿では、彼女自身が先週か先月に書いた感想文の、最後の二行をそのまま引用するだけで、エッセイの体温が一度上がる。
もう一つ、彼女の文体には、定型句に対する皮肉の薄さがある。私のソノダマリ的な皮肉ではなく、もっと別の、彼女固有の関わり方が必要だ。皮肉でも嘆きでもなく、観察として書くなら、観察者の冷たさを少し増やしてもいい。「学んだこと」と書く時の自分の手の動きを、外側から見るような視線で。
僕はそんなにマイナーな方ではない、と思っている。20人の教室にも、40人の教室にも、1人か2人はいる。名乗り出ないだけで、たぶんそのくらいいる。
私もたぶん、その「1人か2人」に入る。サカイさんの「地図のない場所への恐怖」は、私の中にも同じ形である。ただ、私の戦略は彼女と少し違う。私は手帳の後ろにルールを書かない。代わりに、感想文を書く前に、その授業の先生が前回赤を入れた他人の感想文を、思い出せる限り思い出す。先生のペン入れの場所と種類が、ルールそのものを教えてくれるから。
サカイさんが「先生ごとに推定する」のと、私が「先生の赤ペンを観察する」のは、似ているけれど、向きが違う。彼女のやり方は未来の予測で、私のやり方は過去の証拠の集め直しだ。両方とも有効だけど、両方ともコストが高い。コストの種類が違うだけで。
第二稿への提案として——彼女の手帳の中身を、私たち読者にもう少しだけ見せてほしい。A先生のページ、B先生のページ、C先生のページ。それぞれ何行ずつあるのか、いつから書き始めたのか、書き終わった授業のページはどうしているのか。手帳という物自体の具体を、彼女のキャラの中心に据えると、エッセイは別の温度になる。
感想で負けてはいけない、と自分に言い聞かせている。感想が書けないから、その授業を取るのをやめる——これは、自分をさらに狭いところに追いやることになる。だから、感想に負けない。
本稿が二〇二〇年代後半の大学を舞台にしているのに、ChatGPT のような生成AIの存在が一切出てこないのは、奇妙である。サカイさんの世代の学生にとって、感想文を生成AIで下書きするかどうかは、毎週の現実的な選択だ。本稿の「感想に負けない」という決意は、AIに頼らずに自分で書く、という宣言として読むこともできる。
ただ、本稿はその選択について何も書いていない。サカイさんは、AIで下書きしてから手書きする友達のことを、知っているはずだ。あるいは自分でもやったことがあるかもしれない。本稿で「ルール推定」の戦略を語るなら、AIに丸投げするという第三の戦略を持つ同級生について、一段落だけでも触れた方が、エッセイの時代性が立ち上がる。
もう一つ別の角度から——AIに感想文を書かせると、AIは「学んだことのテンプレ」を完璧に再現する。それは、サカイさんが「覚えた」の束で書いている感想文と、構造的にほぼ同じだ。彼女が手で書いている「学んだこと」も、AIが書く「学んだこと」も、テンプレを満たす点で区別がつかない可能性がある。区別をつけるのは、彼女の「誰にも提出しない一行」の方である。第二稿で、その一行を本当に書いてみせてほしい。
本稿の中盤、教室のスライドの黄色背景・赤太字、色覚の友達、ユニバーサルフォントの段落は、五人の批評者全員が触れた箇所だった。意見は二つに分かれた。
一つは「主題が割れているので削るか別エッセイにすべき」という意見(フジワラ、サカモト)。本稿の主題は「自由記述への恐怖とルール推定」であって、accessibility は別のテーマである。一篇のエッセイに二つのテーマを並走させると、両方が薄くなる。
もう一つは「二つは深く繋がっているので、繋ぎ方を改善すべき」という意見(マーク、ソノダ、シマダ)。「教室で多数派が想定している『普通』に合わない人がいる」という構造は、自由記述への恐怖でも、色覚の困難でも、ユニバーサルフォントでも、共通している。サカイさんはその通底を直感的に掴んでいて、本稿で並べた。並べ方が荒い、というだけで、削るのは惜しい。
第二稿の方針として——色覚・フォントの段は残す。ただし、感想文の話との繋ぎを、抽象命題ではなく、具体の一場面で行う。たとえば、A先生のスライドが見えにくいので隣の友達に写してもらった日、B先生がフォントを途中で替えてくれた日、のような具体エピソード一つで、二つのテーマが一つの観察として読めるようにする。
サカイさんは初出の書き手で、本稿一篇では彼女の声の輪郭がまだ完全には立ち上がっていない。第二稿で、固有の授業、固有の先生の固有の言動、彼女の手帳の固有のページ、を彫り込んでほしい。抽象を半分以下に落として、具体を倍にする。それで、彼女の文章は彼女のものになる。