地図のない課題
——「何を書いてもいい」と言われたときの恐怖について

サカイ・ユウ(大学2年生、文学部)

小学校のとき、先生に「相手の気持ちになりなさい」と言われたことがある。そのとき僕は、どうやって相手の気持ちになればいいのか、よく分からなかった。相手の気持ちは相手のものだ。それを僕が持つと、僕の気持ちになる。たぶん先生が求めているのは、そういうことではない。でも、じゃあどういうことなのかは、最後まで教えてもらえなかった。

大学に入ってからも、似た場面は何度かあった。「感想を自由に書いてください」と言われる瞬間がいちばん怖い。「何を書いてもいい」と書いてある。けれど、本当に何を書いてもいいわけがない、ということを、僕は知っている。

紙の半分以上は埋めなければいけない。一行だけでは採点が下がる。とはいえ授業と関係ないことも書いてはいけない。授業の中で出てきた言葉を使いながら、スライドのコピペにはならず、「自分が新しく学んだこと」を書くと点がつきやすい——この「覚えた」の束で、僕はなんとか日々を過ごしている。

自由、と言われた瞬間、凍りつく。地図のない場所を歩いてきて、と言われているような気がする。たぶん先生は、ボーナス問題として出してくれている。やさしさだ。それは本当にやさしさだと思う。でも、地図のない道を怖いと感じる人間が教室にどれくらいいるのか、先生はもしかすると数えていないのかもしれない。

僕はそんなにマイナーな方ではない、と思っている。20人の教室にも、40人の教室にも、1人か2人はいる。名乗り出ないだけで、たぶんそのくらいいる。

先生は、その先生なりの考えから、最大限の工夫をしてくれている。それは分かる。分かるけれど、工夫は時々、届かないところで空振りする。届かないのは、先生の努力が足りないからというより、届かない側の形が複雑すぎるから、という気がしている。

感想で負けてはいけない、と自分に言い聞かせている。感想が書けないから、その授業を取るのをやめる——これは、自分をさらに狭いところに追いやることになる。だから、感想に負けない。

感想は、先生ごとにルールが違う。毎回、そのルールを早めに推定する。推定した内容は、手帳の後ろのほうに書いておく。A先生は「学んだこと」を求める。B先生は「疑問に思ったこと」を求める。C先生は、一行だと露骨に不機嫌になる。覚えておけば、次から少しだけ、息がしやすい。

別の話をしてもいい?

教室のスライドで、黄色い背景に赤い太字、という組み合わせをよく見る。強調したい気持ちは分かる。でも、あれは、全員が同じ強さで見えているわけじゃない。隣で受けている友達は、赤と緑の区別が薄い。黄色と白の差が弱くなる人もいる。先生はそれを知らないわけじゃないと思う。ただ、今日のスライドは去年のを使い回していて、直す余裕がなかった——たぶん、そういうことだ。

このエッセイは、ユニバーサルフォントで書かれている。字の間隔が少し広くて、6と0、1とlが見分けやすいように設計された字だ。書いている僕自身は、フォントで救われるほどの視覚の困難はない。でも、このエッセイが僕の知らない誰かのところに届くとしたら、その人が読みやすいほうがいい。フォント選びは、強調色を足すのとは逆方向の配慮で、足し算ではなく引き算に近い

多様性って何だろう、とときどき考える。答えは出ていない。ただ、先生たちの見ている世界の正しさが、たぶん先生の世界では正しい種類の正しさなのだ、ということは少しずつ分かってきた。先生の世界の正しさは、世界ぜんぶの正しさと、同じではない。同じではないことを知っている先生もいるし、同じだと思い込んでいる先生もいる。どちらも責めたくはない。自分も、自分の側で同じ勘違いをしている場面があるはずだから。

明日も、たぶん、また感想を書いてください、と言われる。紙の半分を埋める準備はできている。学んだことのストックも、少しはある。一行だけ書きたい日もあるけれど、今日は我慢しないで、先生の推定ルールを先に満たしてから、余白に一行だけ、自分のための感想を書いておく。誰にも提出しない一行だ。

その一行を書けるというだけで、明日の提出は、ほんの少し軽くなる。

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