マーク
名古屋でヨコヤマサトシとルームシェアしていた。ALTで小中学校に通っていた。給料は安かった。アパートは狭かった。6畳が2部屋。Two futons in two tiny rooms, and that was our kingdom.
あの頃のことを、ときどき思い出す。何かのきっかけで。カップラーメンの匂いとか。夜中の蛍光灯とか。
6畳が2部屋。アメリカ人にはピンとこないだろう。俺もピンとこなかった。不動産屋に連れて行かれて、部屋を見て、最初に思ったのは "Where's the rest of it?" だった。
でもサトシは平気な顔をしていた。「十分だよ。布団2枚敷けるし」。それが基準なのか。布団が敷けるかどうかが。
実際、布団を2枚敷くと部屋の8割が埋まった。残り2割にちゃぶ台。以上。それが俺たちの全財産みたいなものだった。
サトシの布団と俺の布団の間は30センチくらいだった。
アメリカだったら訴訟になる距離だ。
でも不思議なことに、狭さは3日で気にならなくなった。人間はだいたいのことに慣れる。特に金がないときは。
サトシは研究で夜遅くまで起きていた。何をやっているのかは正直よくわからなかった。パソコンの画面にずっと向かっていて、ときどき唸っていた。たまに「よし」と小さく言った。その「よし」が聞こえると、俺もなんとなく嬉しかった。
俺は日本語の勉強をしていた。漢字カードを作っていた。何百枚も。明日の授業で使う表現を練習していた。"Good morning, everyone!" を日本語で言えるようになっても、子供たちは俺の発音で笑った。毎日笑われた。でも嫌じゃなかった。
夜中の1時くらいになると、どちらからともなくカップラーメンの話になる。
「食べる?」「食べる」
2人とも金がなかった。カップラーメンはconvenience storeで100円ちょっと。2つ買っても200円ちょっと。それが俺たちのmidnight feast。
マークの深夜カップラーメン観察ノート
・サトシは必ず蓋を全部はがす派。俺は半分だけめくる派
・サトシは3分きっちり待つ。俺は2分半で食べ始める
・サトシは「シーフード」。俺は「カレー」。一度も被らなかった
・すすれない俺を見て、サトシが「It's okay, you don't have to slurp」と英語で言った。優しさが英語で出てくるタイプ
あのカップラーメンは、今までの人生で一番うまかった。今は好きなレストランに行ける。ステーキハウスでも寿司屋でもどこでも。でもあの夜中の、蛍光灯の下の、200円の晩餐には勝てない。
漢字の勉強は地獄だった。いや、地獄という漢字が読めるようになったのはだいぶ後だ。
毎晩、サトシに聞いた。「サトシ、この漢字なんて読む?」
サトシはたいてい教えてくれた。丁寧に。でもときどき、こういうことがあった。
「この漢字は?」
「それは読まなくていい漢字だ」
「なんだよそれ(笑)」
「いや本当に、日本人もあんまり読めない」
「日本人が読めない日本語があるの?」
「ある」
「……この国やばくない?」
サトシは笑った。あの笑い方。困ったときに目を細くして、ちょっと首をかしげる。あれは今もビデオ通話で見る。変わってない。
日本語には「読まなくていい漢字」がある。
サトシに教わった中で、いちばん役に立った知識がこれだ。
今でも漢字は苦手だ。でもあの頃よりはだいぶマシになった。サトシのおかげだ。サトシと、夜中のカップラーメンのおかげだ。空腹のときに覚えた漢字は忘れない。これは本当。
あの頃、俺たちには何もなかった。
車はない。テレビは小さいのが1台。エアコンはあったけど電気代が怖くて夏も控えめにしていた。服はユニクロ。外食は月に2回くらい。それも牛丼屋だ。
サトシは大学院生で、俺はALT。2人とも20代で、2人とも自分が将来何になるかわかっていなかった。サトシは研究者になれるかどうかわからなかった。俺はアメリカに帰って何をするかわからなかった。
でも何もないことが、不思議と楽しかった。
金曜の夜にコンビニでビールを1本ずつ買って、ちゃぶ台に座って、くだらない話をした。サトシが研究の話をすると俺は半分もわからなかったけど、わかるふりをした。俺がアメリカの話をするとサトシは全部わかった顔をしたけど、たぶん半分もわかってなかった。
お互いに半分しかわからなくて、お互いにわかったふりをして、
それで完璧だった。
今の俺の話をしよう。
コーナーオフィスがある。窓が2面。秘書がいる。Company carがある。出張はビジネスクラス。ディナーは経費で落ちる。
あの2部屋のアパートから、ずいぶん遠くに来た。
でも、ときどき思う。あの2部屋の方が広かった気がする。
Not because the room was bigger. Obviously. 2部屋合わせてもどう計算しても俺のオフィスより狭い。
Because we had nothing to lose.
何も持っていないから、何も失わない。何も失わないから、怖いものがない。怖いものがないから、夜中にカップラーメンを食べて笑っていられる。それだけのことだ。
マークの広さの定義
・2部屋 + 何も失うものがない = 広い
・コーナーオフィス + 失うものがたくさんある = 狭い
・これは数学ではなくて、feeling
今はいろいろある。家がある。車がある。肩書きがある。部下がいる。責任がある。四半期のレビューがある。株主がいる。何かを間違えると、たくさんの人に影響が出る。
あの頃は、カップラーメンをこぼしても、サトシが笑うだけだった。
サトシ。
お前は今、大学で教えている。研究者になった。あの夜中にパソコンに向かって唸っていたのは、無駄じゃなかった。「よし」と言った回数だけ、お前は前に進んでいた。
俺はアメリカに帰って、いろいろあって、今ここにいる。コーナーオフィスにいる。お前から見たら出世したように見えるかもしれない。まあ、出世はした。でも偉くなったわけじゃない。
偉くなったのはお前の方だと思う。研究を続けるのは、ビジネスで偉くなるより難しい。俺にはできなかった。
この前ビデオ通話したとき、お前は相変わらず眉間にしわを寄せていた。「この論文のレビューがさ」とか何とか言っていた。俺は半分もわからなかった。昔と同じだ。
20年経って、俺たちは変わった。住んでいる場所も、やっていることも、持っているものも。
でも話すと、いつもあの2部屋に戻る。
ありがとう、とは言わない。お前に「ありがとう」と言うと照れるだろう。日本人は照れる。知ってる。
だからこう言う。
サトシ、また夜中にカップラーメン食べよう。今度は俺がおごる。
——100円だけど。