題材そのものは悪くない。異文化の場で「分からないまま笑う」癖が身についた、という核には人間的なねじれがある。だが現稿は、出来事を語る前に意味づけを急ぎ、細部で勝つ代わりに雰囲気語と総括で押し切っている。そのため、実話らしい引っかかりよりも、よく整えられた“それっぽい話”の印象が先に立つ。
「校長先生、マーク先生の身長が高いから、学校の天井に頭がぶつからないか心配だったって、冗談を言ってたんですよ」
ここは落ちとして弱い。笑いの理由が「体が大きい外国人への無害な冗談」だろうと読者はかなり早い段階で見当がつくので、種明かしに驚きがない。前段で引っ張ったぶん、回収が予定調和に見える。
「四月の柔らかい光が差し込む広い空間」「まるで遠くで聞こえる音楽のように」「三百の小さな口から漏れる笑い」
こういう比喩と情緒の足し算は、文章を美しく見せるが、現場の固有性をむしろ消す。光、音楽、小さな口という“感じのいい装置”が並び、書き手の観察ではなく生成的な叙情テンプレートに見える。
「ぼんやりと分かった」「ように感じられた」「わずかにざわめいた」「少しだけ口を開いた」
露骨な「と思う」は少ないが、文章全体がこの種の緩衝材でできている。判断も感情も動作も全部いったん弱めてから出してくるので、臆病な筆致に見える。曖昧さが必要な場面ではなく、単に腰が引けている。
「コネチカット州の自宅、朝の珈琲を淹れながら」「栃木県北部の小さな町、赴任先の小学校体育館」
場所だけは置かれているのに、何も見えてこない。コーヒーの匂いも、台所の光も、体育館の床の冷たさも、上履きの擦れる音もないので、読者は“場面”ではなく“設定”だけを渡される。作者は記憶の芯ではなく、説明可能な輪郭だけをなぞっている。
「その朝以来、マークは『分からないまま笑う』ことを覚えた」「それは、異文化の中で場を和ませるための一種の自己防衛であり、同時に、親愛の情を示す無言の頷きでもあった」
ここで作品が死ぬ。ひとつの出来事から二十四年分の行動原理をきれいに抽出し、その意味まで作者が説明してしまうので、読者が考える余地がない。体験がエッセイになる前に、教訓文へ変質している。
「彼はいつでも笑う方を選んだ」「誰かが笑えば、彼も静かに口角を上げた」「今も、彼は笑う。ただ、笑う。」
“笑う”を主題語として何度も鳴らしすぎている。象徴は一度立てれば効くのであって、反復で効かせようとすると急に作為が見える。最後の「ただ、笑う。」はとどめで、余韻ではなく押し売りになっている。
「異文化の中で場を和ませるための一種の自己防衛であり、同時に、親愛の情を示す無言の頷きでもあった」
この一文は、留学記でも転勤記でも国際結婚記でもそのまま使える。つまり、この人物にしか言えない言葉になっていない。抽象度が高すぎて、文章が本人の体温を失っている。
「栃木の体育館で起こった、あの短い出来事が、彼のその後の振る舞いをそうさせた。今も、彼は笑う。ただ、笑う。」
これは結論ではなく自己神話化に近い。自分の処世術を、傷と優しさの混じった“味のある人格特性”として着地させており、反省も違和感も捨てている。読後に残るのは複雑さではなく、「こういう人なんです」というキャラ印だけだ。
残すべき核は、「意味が分からないのに笑ってしまった」ではなく、「分からないまま笑うことを、その後の自分は本当に武器にしたのか、それとも逃げにしたのか」という不穏さだ。改稿では、説明段落を大幅に削り、体育館の一場面を具体物で立てること。さらに二十四年後の現在に、笑ってやり過ごしたせいで取りこぼした一瞬や関係を一つ差し込み、教訓ではなく代償まで見せると、急に本物になる。