リンメイファ
朝、目が覚めて、最初に思うことがある。
鹹豆漿(シェントウジャン)が飲みたい。
温かい豆乳に酢を落とす。すると豆乳がゆるく固まって、おぼろ豆腐のようになる。そこに油條(ヨウティアオ、揚げパン)をちぎって入れる。干しエビ。ザーサイ。刻んだ葱。ラー油をすこし。スプーンですくうと、とろとろの豆乳と、ふやけた揚げパンと、エビの塩気が一緒に口に入る。
台湾の朝の味。体が起きる味。
台湾には早餐店(朝食屋)がある。朝の6時から開いている。近所に何軒もある。おばさんが一人で切り盛りしていたり、夫婦でやっていたり。
鹹豆漿、35元。日本円で175円くらい。
注文すると、おばさんが大きな鍋から豆乳をお椀に注ぐ。その豆乳は、今朝絞ったばかりの豆乳だ。濃い。豆の匂いがする。砂糖は入っていない。豆の味しかしない。
酢と醤油を少し入れて、ぐるっと混ぜると、豆乳の表面がもわもわと固まっていく。そこに油條を千切って落とす。干しエビ。ザーサイ。菜脯(大根の漬物)を入れる店もある。葱。ラー油。
プラスチックのスプーンですくって、ふうふう冷まして、食べる。
外はまだ薄暗い。バイクのエンジン音がする。向かいのテーブルでは中学生がスマホを見ながら蛋餅(卵のクレープ)を食べている。おばさんが「小心燙!」(熱いよ!)と声をかける。
175円の朝食に、贅沢なものは何もない。でも朝の空気と、おばさんの声と、豆乳の湯気が全部そろっている。それが贅沢だったことに、日本に来てから気づいた。
ある朝、どうしても鹹豆漿が食べたくなった。体が求めている。理由はわからない。天気かもしれない。湿度かもしれない。体が台湾の朝を欲しがっている。
作ろう、と思った。材料はシンプルだ。豆乳と酢があればいい。
スーパーに行った。豆乳コーナー。
「調製豆乳」。「無調整豆乳」。「豆乳飲料 バナナ」。「豆乳飲料 麦芽コーヒー」。「豆乳飲料 いちご」。
手に取った。調製豆乳。原材料を見る。大豆、砂糖、食塩、乳酸カルシウム。——砂糖が入っている。
無調整豆乳。大豆のみ。これだ。と思ったが、パックを開けて匂いを嗅いだ記憶がよみがえる。日本の無調整豆乳は、台湾の豆漿とは違う。薄い。さらさらしている。台湾の朝食屋の豆乳は、もっとどろっとしていて、豆の粒子が舌に残るくらい濃い。
甘い。全部甘い——というのは正確ではない。無調整豆乳には砂糖は入っていない。でも飲み慣れた味と何かが違う。
台湾の豆漿は、朝食屋が毎朝大豆を絞って作る。大豆と水だけ。あの濃さ、あの豆くささは、工場のラインからは出てこない。
それでも、無調整豆乳をかごに入れた。ないよりいい。80%の材料でも、作らないよりは作ったほうがいい。魯肉飯のときに学んだことだ。
次の問題。油條がない。
油條。細長い揚げパン。外はかりかり、中はふわふわ。台湾の朝食屋なら、カウンターの上に山積みになっている。10元(50円)。千切って鹹豆漿に入れると、豆乳を吸ってふにゃふにゃになる。その食感が大事なのだ。
日本のスーパーには、ない。中華食材店に行けばあるかもしれない。冷凍のものが。でも今は朝で、今食べたくて、今作りたい。
台所に戻って、冷蔵庫を開けた。食パンがあった。6枚切りの、ごく普通の食パン。
……食パン。
油條の代わりに、食パン。
母が見たら怒る。というより、悲しい顔をする。「你在幹嘛啊(何やってるの)」と言いながら、眉をひそめる。台湾の母親の「理解できない」という顔。
邪道だとわかっている。わかっているけれど、食パンを手で千切った。一口大に。ちぎるたびに、ふわふわの白い断面が出てくる。
お椀に酢を小さじ1。醤油を少し。干しエビをひとつまみ。ザーサイを刻んで入れる。ザーサイは桃屋の瓶詰め。台湾のザーサイとは微妙に味が違うけれど、これも「ないよりいい」の精神で。
豆乳を小鍋で温める。沸騰させてはいけない。ふちがふつふつと泡立つくらい。ここは母に教わったとおり。
温めた豆乳を、お椀に一気に注ぐ。
じゅわ、と小さな音がした。酢と豆乳が反応して、表面がもわもわと固まっていく。おぼろ豆腐のように、ゆるく、やさしく。
——あ。この瞬間。
この、豆乳が固まっていく瞬間が好きだ。液体が固体になる、その途中。どちらでもない状態。やわらかくて、あたたかくて、壊れやすい。
千切った食パンを落とした。白い食パンが豆乳に沈んでいく。
葱を散らす。ラー油を数滴。
スプーンですくった。食パンが豆乳を吸って、ふわふわに膨らんでいる。ザーサイの塩気。干しエビの旨み。酢の酸味で固まった豆乳のやさしい味。
食べた。
——おいしい。
油條ではない。食パンだ。食パンには油條の油の香ばしさがない。かりかりの食感もない。でも——豆乳を吸った食パンの、あのふわふわは、油條にはない柔らかさだった。
台湾の鹹豆漿ではない。日本の料理でもない。台湾でも日本でもない。
第三の豆漿。名前のない朝食。どこの国のものでもない、私だけの朝ごはん。
食べ終わって、考えた。日本の豆乳は、なぜ甘いのだろう。
台湾でも甘い豆漿はある。甜豆漿。砂糖を入れた豆乳。朝食屋で「甜的還是鹹的?」(甘いの? しょっぱいの?)と聞かれる。選べる。甘いのもしょっぱいのも、どちらも当たり前に存在する。
日本では、豆乳は「飲み物」だ。パックに入って、冷蔵庫から出して、そのまま飲む。飲み物だから、飲みやすくする。飲みやすくするために、甘くする。バナナ味。麦芽コーヒー味。いちご味。
台湾では、豆乳は「料理の素材」でもある。温めて、酢で固めて、具を入れて食べる。料理の素材だから、余計な味がないほうがいい。だから砂糖を入れない。
同じ大豆から作ったものが、海を渡ると役割が変わる。素材が飲み物になる。朝ごはんがおやつになる。
面白いなと思った。怒ってはいない。寂しくもない。ただ、面白い。
豆乳に何を期待するか。それだけで、棚に並ぶ商品が変わる。味が変わる。朝の風景が変わる。
母に写真を送った。お椀に入った、食パン入りの鹹豆漿。
「媽,我用吐司代替油條做了鹹豆漿」
(ママ、食パンで油條の代わりにして鹹豆漿作ったよ)
しばらく既読がつかなかった。台湾はまだ朝の7時くらいだ。母はたぶん早餐店にいる。本物の鹹豆漿を食べている。本物の油條が入った、本物の。
30分後、返信が来た。
「哈哈哈哈 吐司!你是日本人嗎」
(ハハハハ 食パン! あんた日本人なの)
笑っている。怒ってはいなかった。笑っている。
「好吃嗎?」(おいしかった?)
「意外地好吃」(意外においしかった)
「那就好。能吃就好。」
(ならいいよ。食べられるならいいの。)
能吃就好。食べられるならいい。台湾の母親のやさしさは、いつもこういう形をしている。正しさより、おなかがふくれること。伝統より、娘が朝ごはんを食べていること。
それから、ときどき作るようになった。食パンの鹹豆漿。
無調整豆乳を温める。酢と醤油をお椀に入れる。干しエビ。ザーサイ。食パンを千切る。豆乳を注ぐ。葱を散らす。
5分でできる。175円の朝食屋には行けないけれど、200円くらいの材料費で、似たようなものができる。似たようなもの。似ているけれど違うもの。
でも、回数を重ねるうちに気づいた。私はもう「台湾の味を再現しよう」としていない。食パンの鹹豆漿を、食パンの鹹豆漿として作っている。代用品ではなく、これ自体をおいしいと思って作っている。
油條が恋しくないわけではない。恋しい。あのかりかりが、豆乳を吸ってふにゃっとなる、あの瞬間は食パンでは出せない。
でも食パンには食パンの良さがある。きめの細かい、やさしい、日本のパン屋のパン。あのふわふわが豆乳を吸うと、もちもちになる。油條にはない食感。偶然の発明。
台湾から持ってきたレシピが、日本の台所で、すこしずつ形を変えていく。魯肉飯のときも同じだった。足りない材料を嘆くのではなく、あるもので作る。あるもので作ったものが、いつのまにか、自分の味になる。
この朝食に名前がない。
鹹豆漿と呼ぶには油條がない。日本の朝食と呼ぶには酢と干しエビが入っている。台湾でもなく、日本でもなく、そのあいだのどこかにある。
でも、名前がないことは悪いことではない気がしてきた。名前がないから、どこにも属さない。どこにも属さないから、自由だ。明日はクルトンを入れてみようか。揚げワンタンの皮はどうだろう。おかきを砕いて入れたらどうなるだろう。
台湾の母が作る鹹豆漿は完璧だ。完璧だから、変える余地がない。でも私の食パン豆漿は不完全だから、いくらでも遊べる。
不完全は自由だ。80%のレシピは、残りの20%で遊べる。
窓の外が明るくなってきた。朝だ。今日も名前のない朝食を食べて、名古屋の一日が始まる。
お椀を洗う。干しエビの匂いがスポンジに残る。この匂いを嗅ぐと、朝ごはんを食べたな、と思う。台湾にいた頃と同じ匂い。台所は違う。お椀も違う。豆乳も違う。パンも違う。でも干しエビの匂いだけは、海を渡っても変わらない。