今日何食べた?
——台湾料理日記 #3

リンメイファ

毎週日曜日、母に電話する。

呼び出し音が3回鳴って、母が出る。第一声。毎回同じ。

今天吃什麼?

(今日何食べた?)

天気ではない。体調でもない。仕事の話でもない。食べたもの。台湾の親は、食で娘の安否を測る。

甘すぎる滷肉飯

滷肉飯作った」と答える。

間髪入れず返ってくる。

你的滷肉飯太甜了。

(あんたの滷肉飯は甘すぎる。)

毎回言われる。作るたびに言われる。写真を送っても、送らなくても言われる。食べてもいないのに言われる。母のなかで、私の滷肉飯は永遠に甘すぎることが確定している。

「じゃあレシピ教えて」と聞く。これも毎回聞く。

適量啊,適量。

(適量よ、適量。)

適量。母のレシピはこの二文字でできている。醤油は適量。砂糖は適量。八角は適量。煮る時間も適量。書いてない。どこにも書いてない。母の頭のなかにだけある。しかも毎回微妙に違う。

「前回教えてくれたのと分量違わない?」

看心情啊。

(気分で変わるわよ。)

レシピが気分で変わる料理人。それが母だ。

書かれなかったレシピ

母は料理を本で学んでいない。母の母——つまり祖母に教わった。祖母は祖母の母に教わった。台所で隣に立って、手を見て、匂いを嗅いで、味見をして覚えた。分量は目と鼻と舌が知っている。文字にする必要がなかった。

私は台湾を離れた。台所で隣に立てなくなった。だから電話で聞く。「醤油どのくらい?」「鍋をぐるっと一周」。ぐるっと一周。鍋の大きさは? ぐるっとの速度は? 聞けば聞くほど、レシピは遠くなる。

言葉にした瞬間、何かがこぼれる。「適量」に含まれていた、あの手つきの速さ、火の前に立つ姿勢、鍋を振る角度——そういうものは電話では渡せない。

再現できない味。レシピが書かれていないから。

でも、レシピがないことが、毎週電話する理由になっている。

レシピが完璧に書かれていたら、もう聞くことがない。わざわざ日曜日に電話しなくていい。レシピサイトを見ればいい。でもレシピがないから、「ねえ、今日は砂糖どのくらい入れた?」と聞く口実ができる。母は「適量」と答える。何の情報もないのに、それで満足する。

情報が欲しくて電話しているのではない。声が聞きたくて電話している。レシピは口実だ。母もたぶん知っている。知っていて「適量」と言っている。

日曜日の決まりごと

電話はいつも同じ流れをたどる。

母が出る。「今天吃什麼?」。私が答える。母がダメ出しをする。私がレシピを聞く。母が「適量」と言う。私が笑う。母が近所の誰それの話をする。私が聞く。母が「有沒有好好吃飯?」(ちゃんとごはん食べてる?)と聞く。私が「食べてる」と言う。母が「不要都吃外面的。」(外食ばっかりダメよ)と言う。

そして、電話の終わりが近づく。

声のトーンが変わる。すこしだけ柔らかくなる。すこしだけ低くなる。

多吃一點。

(もうちょっと食べなさい。)

日本語に訳すと「もっと食べて」。6文字。それだけ。でもあの声のトーンは訳せない。6文字に収まらないものが、あの声にはある。

翻訳できない3文字

多吃一點。中国語では4文字。日本語では6文字。英語にすればEat a little more。どの言語でも、意味は伝わる。意味は伝わるのに、何かが足りない。

母が言う「多吃一點」には、意味以外のものが詰まっている。

あんた痩せたんじゃないの。ちゃんと食べてるの本当に。日本の冬は寒いんでしょう。コンビニのおにぎりばっかり食べてないでしょうね。果物は食べてる? 野菜は? あんた昔から野菜嫌いだったわよね。お味噌汁は作ってる? 日本人はお味噌汁飲むんでしょう。

そういうことを全部「多吃一點」の4文字に折りたたんで渡してくる。台湾の母親の圧縮率は世界最高だと思う。

「うん、食べるね」と答える。

好,那掛了喔。」(じゃあ切るね。)

電話が切れる。部屋が静かになる。さっきまで母の声がしていた空間に、名古屋の夕方の音が戻ってくる。遠くで電車の音。隣の部屋のテレビ。

電話のあとの台所

電話を切ると、なぜか台所に立ちたくなる。

冷蔵庫を開ける。豚バラの切り落としがある。醤油がある。砂糖がある。八角は——ない。いつもない。#1で嘆いたのと同じだ。

八角がなくても作る。母のレシピは「適量」だから、八角がゼロでも「適量」の範囲内かもしれない。たぶん違うけれど。

醤油を入れる。どのくらい? 鍋をぐるっと一周——の、たぶん半周くらい。砂糖。大さじ1。母なら「太甜了」と言う量。でも私は甘いのが好きだ。母のレシピを作っているのではない。母のレシピを起点にした、私のレシピを作っている。

煮込む。部屋に醤油と砂糖の匂いが広がる。台湾の台所の匂いに似ている。似ているけれど違う。でも目を閉じると、一瞬だけ、母の台所にいる気がする。

料理は電話の続きだ。母の声が消えた台所で、母のレシピを(適量で)なぞる。手を動かしている間は、まだ電話が続いているような気がする。

吃飽了嗎

台湾の挨拶に「吃飽了嗎?」(おなかいっぱい?)がある。英語のHow are you?にあたる。体調ではなく、空腹かどうかを聞く。

おなかがいっぱいなら元気。おなかが空いていたら心配。台湾の愛情表現は食の語彙でできている。「愛してる」より「食べた?」。「大丈夫?」より「おなかすいてない?」。

母は「好きよ」とは言わない。「心配してる」とも言わない。そういう言葉を使わない世代だし、使わない文化だ。その代わりに「多吃一點」と言う。「不要都吃外面的」と言う。「你的滷肉飯太甜了」と言う。

全部、食べ物の話だ。全部、食べ物の話をしているふりをした、別の話だ。

あんたのことが心配。あんたが遠くにいて寂しい。でも寂しいとは言わない。「滷肉飯の砂糖が多い」と言う。

来週も電話する

母のレシピは、たぶん永遠に完成しない。

「適量」の中身は毎回変わる。母自身も正確な分量を知らない。知らないというより、分量という概念がない。手が覚えている。鼻が覚えている。舌が覚えている。それは口では伝えられない。電話では渡せない。隣に立たないと受け取れない。

だから来週も電話する。再来週も。その次も。

今天吃什麼?

滷肉飯作ったよ」

太甜了。

わかってる。わかっていても作る。わかっていても報告する。そしてまた「適量」を聞いて、何の情報も得られないまま電話を切る。

レシピが完成しない料理。完成しないから、電話が終わらない。電話が終わらないから、母とつながっている。不完全なレシピは、完璧な口実だ。

電話を切る。「多吃一點」の声が、まだ耳に残っている。部屋に醤油の匂いが残っている。

もうちょっと食べよう。母がそう言ったから。

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このページの記事はAI(ChatGPT)を用いて作成・編集されています。リンメイファは架空の人物であり、台湾の食文化についての記述は一般的な情報に基づいています。