ワタナベ(65歳・元会社員)
図書館の縮刷版は、記事より先に紙面の癖を見せる。頁をめくるたび指先に黒い粉がつき、訃報欄だけ細い罫で囲われている。八ポイントほどの活字が押し合い、肩書の長い人は二行に割れ、姓の最後の一字がつぶれる。私はそこで悲しみより順番を読むようになった。何を先に書き、何を後ろへ回すかで、死んだ人の扱われ方が決まる。
「前日本郵船社員某氏、昨二十八日午後十時二十五分脚気衝心ヲ以テ死去、行年五十七」
こういう一行では、名より肩書が先に立ち、病名と時刻が骨のように硬い。脚気衝心、腸加答児、午前一時四十分。古い病名の字面は重く、分単位の時刻は妙に冷える。死者は文の主語でありながら、主役ではない。明治の訃報は厳粛なのではない。死者を人から項目へ変える力が強い。
今の会葬案内は逆向きに見えて、別の隠し方をする。「葬儀は近親者のみで執り行いました」「ご香典、ご供花の儀は辞退申し上げます」と続く文では、読み手が最初に受け取るのは故人ではなく手続きである。名前はその合間に差し込まれ、「父」「妻」「弊社元代表取締役」という続柄や肩書に包まれる。「逝去されました」と敬語まで付くと、だれに頭を下げているのか曖昧になる。整っているぶん、死者はすでに処理の済んだ事実に見える。
昔は公で今は私、と片づけると鈍る。優劣ではない、と逃げるのも違う。古い訃報は遺体を帳面に貼りつけ、今の訃報はそれを事務連絡の奥へしまう。隠し方が違うだけだ。訃報は悲しみを書く文章ではない。読み手が遺体を直視しないで済む距離を配る文章である。縮刷版を閉じたあと、頭に残るのは立派な人生ではなく、「午後十時二十五分」と「供花辞退」のような、体温のない断片だ。その断片が、死者より長く居座る。