「思い出せる名前と、思い出せない名前」の背後には、計算機科学の記憶階層とキャッシュの概念がある。高頻度でアクセスされるデータは高速に取り出せる場所に置かれ、低頻度のデータは取り出しに時間がかかる場所に格納される。人間の記憶もこれと同じ構造を持っている。
現代のコンピュータは、複数階層の記憶装置を持つ。CPUに最も近いL1キャッシュ(数ナノ秒で読める、数十KB)、L2キャッシュ(数十ナノ秒、数MB)、メインメモリ(百ナノ秒、数十GB)、SSD(マイクロ秒、TB級)、そして遠隔ストレージ(ミリ秒以上)。
頻繁にアクセスされるデータは、自動的に近い階層にコピーされる(これがキャッシュ)。あまりアクセスされないデータは、遠い階層に追いやられる。アクセス頻度と取り出し速度には、明確な対応関係がある。
本作で、ワタナベが47年ぶりに同窓会名簿を読み上げる場面。毎年年賀状を交換している山田俊一は、瞬時に顔が浮かぶ。L1キャッシュにいる。十年前に同窓会で会った鈴木和彦は、5秒考えてぼんやり浮かぶ。L2かメモリ。卒業以来会っていない佐藤健は、何度読んでも浮かばない。遠隔ストレージから取り出せない。ある名前は、もう何を試しても出てこない——おそらく、データそのものが消失している。
記憶のアクセスは、頻度と直近性に応じて速度が変わる。「最近会った人」「定期的に思い出す人」は近い階層にいる。「ずっと会っていない人」は遠い階層に追いやられる。
計算機のキャッシュには明確なルールがある。一般的にはLRU(Least Recently Used)方式で、最も最近使われていないデータが追い出される。
人の記憶はもう少し複雑で、頻度・直近性に加えて、感情の強さ、繰り返しの種類、関連する文脈の豊富さなど、複数の要因で階層が決まる。卒業式の特別な日の名前は、平凡な日の名前より長く残る。ある名前を意図的に何度も声に出すと、それは近い階層に戻ってくる。
同窓会名簿を声に出して読むという行為は、まさにこの「記憶の再ロード」を試みている。戻ってくる名前と、戻ってこない名前。ワタナベの脳は、47年間のアクセスパターンを記憶階層に正直に反映している。
シリーズ「裏の糸」は、専門家には当たり前の概念を、暮らしの言葉で語り直す試み。これまでに経済学(外部性〜シトフスキー、公共財、機会費用、アンカリング)、哲学(テセウスの船)、計算理論(NP困難)、生物学(共進化)などを扱ってきた。本作はそれらに続く一本である。シリーズ全作のリストは カテゴリM から。