核は強い。学生服の裾を「切らずに折り上げる」こと、二年生と三年生で二度「出す」こと、卒業前に出す分が残っていない袖の縫い代を指でつまむこと、お下がりの学ランにうっすら残る前の名前の縫い跡。この四点だけで一本立つ。問題は、書き手がその四点を信用せず、春の光と真新しい黒で場面を立ち上げ、最終段で「貯金」という比喩を持ち出して全部を説明し直してしまっていることだ。デビュー作で「縫い代の幅が、その服の許容量だ」と動作と数字だけで主題を運べた人が、二作目では同じことを言葉で説明してしまっている。後退している。縫い代をセンチで測る人が、なぜここでは「気がした」「かもしれない」と濁すのか。
「三月になると、店の前に学生服がならぶ。春の光の中で、真新しい制服の黒が一段と濃く見える。」
春の光、真新しい黒。入学エッセイの判子です。この書き手が本当に三十五年ミシンを踏んできたなら、三月の店先で最初に目に入るのは光ではなく、預かった制服に付いたタグの山か、裾上げ待ちのハンガーの数か、納期を書いた付箋のはずです。デビュー作の冒頭は光を描かず、「詰めるか、出すか」といきなり手の話から入った。今作は雰囲気を人物より先に立ててしまっている。
「そういう顔を見るのが、私はわりと好きなのかもしれない。」/「胸がいっぱいになるような気がした。」
この人物はウエストを二センチ単位で測り、縫い代が一・五センチか確かめてから注文を受ける人です。曖昧を許さない手つきで生きてきた職人が、自分の感情だけ「かもしれない」「気がした」で逃げるのは不自然だ。これは怯えではなく、断言を避ける作者の保険に見える。好きなら好き、と書けばいい。センチの人に、心だけ濁させてはいけない。
「縫い代は、成長の貯金なのだ。最初に少し多めに残しておいて、伸びるたびに少しずつおろしていく。(中略)私はそれを、子どもの背に合わせて、少しずつ現金に換えているのだ。」
完全に解説文です。しかも比喩を一度言うだけでなく、「おろす」「現金に換える」と展開して念を押している。第六段ですでに「三年分の成長が、消えてしまった縫い代として、私の手の中にある」と、動作と物で言いきっていた。それが核だ。そこへ「貯金」という会計用語を被せると、手の中の実感が、ただの上手いたとえに格下げされる。読者が自分で気づくべきことを、作者が先に要約して渡してしまっている。
「私が詰めたり出したりしているのは、布ではなく、子どもたちの三年間そのものなのだと。」
エッセイの主題を、そのまま主題文として書いたら、それは要約です。「布ではなく◯◯そのもの」は、どんな職業エッセイの末尾にも貼れる汎用シール。デビュー作には「私はその全部を、ウエストの数センチの注文で受け取ってきた」という近い一文があったが、あれは「数センチ」という具体が支えていた。今作のこれは具体を欠いた抽象の宣言で、語り手がミハラエツコである必然がない。
「今日も店の奥で、ミシンの音が静かに響いている。」
これはデビュー作の最終段の結びと一字一句近い。同じ書き手の二作目で同じ静物画で締めると、余韻ではなく手癖に見える。とくに今作は「三月のミシンは、夜遅くまで動いている。(中略)休んでいられない」と、繁忙期の音を一度きちんと書いている。忙しくて夜まで唸るミシンと、「静かに響く」ミシンは別物だ。後者の常套句で上書きすると、せっかく立てた三月の実感が消える。
「指で縫い代をつまむと、もうほとんど布が残っていない。」
ここが一番効くはずの場面なのに、観察が一段浅い。三年間で二度出した袖の内側は、「残っていない」だけでは終わらない。前に折り上げてアイロンで付けた折り山の跡が、布に段になって残っているはずだ。出し終えた袖口は、日に焼けていない内側の黒と、焼けた外側の黒で色が違う。デビュー作はそういう「布が覚えている癖」を書けていた。今作はその手前で言葉に逃げている。残すなら、つまんだ指が触れる段差まで書くこと。
「気持ちはわかる。今の自分の体に合っていないことが、本人にはいちばんよくわかるのだ。」
これは仕立て屋でなくても言える一般論です。長すぎる袖をつまんで不満そうにしている子の描写は良い。だがそこへ「気持ちはわかる」と説明を足した瞬間、観察が感想に薄まる。針を打つ人なら、共感を語らず、どこに針を打ったかで答えるはずだ。実際この段は「真ん中くらいで針を打つ」と動作で閉じていて、そこは効いている。だから手前の一般論は丸ごと要らない。
残すべきは四つ。学生服を「切らずに折り上げる」という手つき、二年・三年で二度出すという縫い代の設計、出しきった袖の縫い代を指でつまむ場面、お下がりの学ランに残る前の名前の縫い跡。削るべきは、春の光と真新しい黒の書き割り、「かもしれない/気がした」の留保、「貯金」比喩の展開、そして主題を言い直す最終二段。改稿では、卒業前の袖を「布が残っていない」で止めず、二度出した折り山の段差と内外の黒の色差まで指で触らせること。意味は、縫い代の段差が運ぶ。比喩が運ぶのではない。