ミハラエツコ(59歳・仕立て直し職人35年)
三月になると、店の前に学生服がならぶ。春の光の中で、真新しい制服の黒が一段と濃く見える。新入生の制服は、たいてい大きめに買われてくる。三年間着るのだから、と。だから袖も裾も余っていて、それを入学式までに詰めるのが、この季節の私の仕事になる。
制服は、最初から大きく作られているわけではない。親御さんが大きめのサイズを選ぶのだ。「どうせすぐ伸びるから」と、お母さんは決まって言う。中学を出たばかりの子は、これから背が伸びる。伸びることを見越して、ワンサイズ上を買う。そして余った分を、私が詰める。
大事なのは、詰めるときに切らないことだ。学生服の裾上げは、布を切ってしまわない。折り上げて、まつる。詰めた分は縫い代として内側に残しておく。なぜなら、二年生になったらまた背が伸びて、その分を「出す」ことになるからだ。一度詰めて、一度出して、三年生でもう一度出す。学生服の縫い代は、そういう三年間の使われ方を前提に残されている。
成長の速い子は、夏休みにもやってくる。四月に詰めたばかりの裾を、もう出してほしいと言うのだ。お母さんが、少し困ったような、それでいてうれしそうな顔をして連れてくる。子どもはたいてい、自分の伸びた足を見られるのが少し照れくさいような顔をしている。そういう顔を見るのが、私はわりと好きなのかもしれない。
採寸のとき、本人と親御さんで意見が食い違うことがある。お母さんは「長めに。すぐ伸びるから」と言う。本人は「今ちょうどがいい」と言う。鏡の前で、長すぎる袖をつまんで不満そうにしている。気持ちはわかる。今の自分の体に合っていないことが、本人にはいちばんよくわかるのだ。私はだいたい、その真ん中くらいで針を打つことにしている。
三年生の卒業前、最後に詰めの注文が来る。今度は出すのではない。きつくなった胴回りを直すこともあるが、多いのは、もう「出す分が残っていない」袖だ。三年間で二度出して、縫い代を使いきっている。指で縫い代をつまむと、もうほとんど布が残っていない。三年分の成長が、消えてしまった縫い代として、私の手の中にある。あの小さかった子が、布を使いきるほど大きくなった。そう思うと、なんだか胸がいっぱいになるような気がした。
お下がりの直しも来る。お兄ちゃんの学ランを、弟が着られるように直す。袖丈を詰めて、ネームの刺繍をほどいて、下の子の名前に入れ替える。糸をほどくと、お兄ちゃんの名前の縫い目の跡が、うっすら布に残っている。同じ名字、違う名前。同じ家の、二人分の制服だ。
三月のミシンは、夜遅くまで動いている。入学式という締め切りがあるから、休んでいられない。ミシンの音を聞きながら、私はいつも思う。私が詰めたり出したりしているのは、布ではなく、子どもたちの三年間そのものなのだと。
縫い代は、成長の貯金なのだ。最初に少し多めに残しておいて、伸びるたびに少しずつおろしていく。三年間でちょうど使いきるように、誰かが計算して残しておいてくれた余白。私はそれを、子どもの背に合わせて、少しずつ現金に換えているのだ。布には、ちゃんと未来が縫い込まれている。今日も店の奥で、ミシンの音が静かに響いている。
——補記:この第一稿は辛口レビューを受け、第二稿で書き直しました。第一稿・レビュー・第二稿を並置して、改稿の過程を記録しています。